フォト・エッセイ(60) 清水寺から永観堂へ②


 神様の恵みは、ときに応じて形を変えながらわたしたちの心に降り注ぐ。先週は、青空を背景にした鮮やかな紅葉の色彩を通して、神様はあふれんばかりに豊かな恵みを注いでくださった。あの美しさに心を動かされなかった人はほとんどいないだろう。神様は先週、誰でもがはっきりと感じられるような形でわたしたちに恵みを与えてくださった。
 今週、神様はとても小さくて目立たない美しさを通してわたしたちの心に恵みを注いでくださった。片隅で輝いている紅葉の美しさ、散って朽ちようとしている紅葉の美しさを見つけ出すためには、よほど眼を凝らしていなければならない。小さな美しさが語るメッセージを聞き取るためには、よく耳を澄ましている必要がある。もし色鮮やかな紅葉の残像に心を惑わされていれば、地味な景色の中に秘められた美しさを見出すことはできないだろう。
 先週の美しさも今週の美しさも、神様がわたしたちに与えてくださった恵みとしての価値に上下はない。わたしたちに見る目と聞く耳さえあれば、それらの中に同じように神様の恵みを見つけることができるだろう。はっきりしているのは、神様はわたしたちにどんなときでもあふれるほどの豊かな恵みを注いで下さっており、わたしたちがその恵みに気づくのを待っておられるということだ。
 同じようなことが、わたしたちの日常生活の中でもあるようだ。事業や研究が成功したとき、入学試験などに合格したとき、思わぬ大金が手に入ったとき、そのようなときに神様の恵みを感じることはさほど難しくない。だが、特に目立ったこともない平凡な日常生活の中で神様の恵みを見つけ出すためには、よい目とよい耳が必要だと思う。心が研ぎ澄まされていなければ、日常生活の中に隠れている小さな喜びや感動を見つけ出すのは困難だろう。だが、はっきりしているのは、人間から見たら何もないと見えるようなところであっても実は至るところに神様の恵みが隠されており、神様はわたしたちがそれを見つけ出すのを待っておられるということだ。
 めくるめく美しさでわたしたちを魅了した紅葉の季節は終わり、片隅に隠れた小さな美しさが語るメッセージに静かに耳を傾ける季節が来ようとしている。







※写真の解説…1枚目、南禅寺の紅葉。2枚目、知恩院の紅葉。3枚目、4枚目、永観堂の紅葉。