バイブル・エッセイ(32) 永遠の命

 このエッセイは、「死者の月」の追悼ミサでの説教に基づいています。

 「父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」(ヨハネ6:37-40)
 前回、復活したらどうなるのかという話しをしましたが、今日の福音の中でイエス様は「永遠の命」について話しておられます。「永遠の命」というのは、いつまでも終わることのない、決して消えない命ということです。
 身近な人が亡くなり、火葬場でその人の体が一塊の骨になってしまったのを見るとき、わたしたちはその人の命はもう完全に終わったのだ、その人は消えてしまったのだと感じます。死んで体が燃やされてしまっても終わらない「永遠の命」があるとすれば、それは一体どんなものなのでしょう。
 わたしが「永遠の命」ということについて少し分かった気がしたのは、マザー・テレサが亡くなった時です。生前、マザー・テレサには本当によくしてもらったので、その知らせを聞いた時はショックでした。わたしの手を引いて神父様のところに連れていき、「この子をよろしくお願いします」と頼んでくれたマザー。あのときわたしの手を握ってくれたマザーの手の温もりは、今でもはっきりと覚えています。まるでおばあちゃんのようにわたしをかわいがり、導いてくれたマザーが死んでしまったと思ったとき、わたしは悲しくてたまりませんでした。
 何日かたって、東京にいるマザー・テレサのシスターたちと一緒に聖堂で祈っていた時のことでした。わたしは、イエス様の像に向かってただ「悲しくて仕方がありません」とだけ話しかけていました。そのとき、ふとイエス様の像の向こう側にマザー・テレサの顔が浮かび上がり、わたしに向かって微笑みかけたのです。まるで生きているときと同じ、暖かくて吸い込まれるような笑顔でした。その笑顔を見たとき、わたしは「ああ、マザーは生きているんだ」と思いました。マザーの体は死んでしまったけれど、どこかわたしたちの理解を越えた別の次元でマザーは生きている、そのことをはっきりと感じたのです。
 理屈ではうまく説明できないのですが、「永遠の命」を与えられるというのはきっとそういうことなのでしょう。愛する人の体の温もりは消えてしまっても、その人がわたしたちの中に残してくれた愛、その人を通してわたしたちに注がれた神様の愛は永遠に消えることがありません。その愛の中に、その人は生き続けているのだとわたしは思います。
 亡くなった人たちのことを思い出すとき、わたしたちの心にはその人たちが残してくれた愛が生きています。ですから、わたしたちは何も悲しむ必要がないのです。復活の日に、再び体の温もりと共にその人と再会するときまで、その人が残してくれた愛とともに歩んでいきましょう。
※写真の解説…永観堂のモミジ。