バイブル・エッセイ(33) 目を覚ましていなさい


「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。父だけがご存じである。気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分からないからである。それは、ちょうど、家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。主人が突然帰って来て、あなたがたが眠っているのを見つけるかもしれない。あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」(マルコ13:32-37)
 しばらく前のことですが、ある60代の男性から次のような話を聞きました。
 「半年ほど前に癌が見つかり、緊急で入院しました。一時はもうだめかと思われましたが、手術の甲斐あってなんとか一命をとりとめ、家に帰れることになりました。また息子たちと一緒に暮らせるかと思うとうれしくて仕方がなかったのですが、家に帰ると困ったことになっていました。息子たちが、わたしの遺産相続をめぐって険悪な仲になっていたのです。息子たちは、わたしが早く死ねばいいと思っているかのようです。」
 この話を聞いたときに、わたしはとても胸が痛みました。このお父さんは息子たちに深い愛情を抱き、また家で彼らと一緒に暮らせることを本当に楽しみにしていたのです。ですが、家に帰ってみると息子たちは欲に目がくらみ、お父さんのことを忘れて兄弟げんかに明け暮れていました。財産に目がくらんだ彼らには、もう父親の愛情など目に入らなかったのです。
 欲望に押し流されたり、憎しみや怒りに囚われたり、悲しみに沈んだりしていると、わたしたちの目はくらんでしまうことがあるようです。そんなときには、この話の息子たちのように、もう目の前にある大切なものさえ見えなくなってしまいます。目の前にある愛にさえ気づくことができなくなってしまうのです。
 イエス様が来られるとき、そんなことがないようにしたいものです。イエス様が目の前に来られ、わたしたちにあふれるほどの愛を差し出してくださったとしても、もしわたしたちの目が欲望や憎しみ、悲しみなどでくらんでいればそれが見えないかもしれません。
 待降節第一主日である今日、イエス様はわたしたちに「目を覚ましていなさい」とおっしゃっています。欲望や憎しみ、悲しみなどによって目をくらまされ、眠っていてはイエス様が来られても気がつかないかもしれません。この待降節のあいだ、いつイエス様が来られてもいいようにしっかりと目を見開いていたいものです。
※写真の解説…文京区役所から見た夕暮れ時の街並み。