教会報記事「マザー・ハウスのクリスマス」

 このエッセイは、カトリック六甲教会教会報・クリスマス特別号に掲載されたものです。

 もう10年以上も前のことになりますが、わたしは2回の待降節カルカッタマザー・テレサの家で過ごしました。マザー・テレサが住んでいた家は、世界中にある「神の愛の宣教者会」の修道院にとってお母さんにあたる家なので、マザー・ハウスと呼ばれています。
 待降節の始まりの日、マザー・ハウスの聖堂には空の飼い葉桶が置かれます。飼い葉桶の隣にはわらの束も積み上げられます。なんのためでしょうか。不思議に思っているわたしたちボランティアを集めて、マザー・テレサは次のように話しました。
 「この待降節のあいだ、神様のために何かを犠牲にするたびごとにこの飼い葉桶に一本ずつわらを入れてください。犠牲を捧げることで、わたしたちの心の中にはイエス様を迎えるための場所ができます。
 もし心の中にいろいろなものへの執着心や怒り、憎しみなどが一杯詰まっていれば、イエス様はわたしたちの心の中に入ってくることができません。ですが、もし執着心や自分本位の感情を犠牲として神様のために手放すならば、わたしたちの心にはイエス様を迎えるための場所ができるのです。
 たくさんの犠牲を捧げて、あなたたちの心にイエス様を迎えるための場所が準備される頃には、この飼い葉桶もわらで一杯になっているでしょう。」
 この話を聞きながら、わたしはいいことを思いつきました。ボランティアとして働いている「死を待つ人の家」まで、いつもはバスで行っているけれど今日は歩いてみたらどうだろう。バスで行った方が楽に決まっているけれど、楽なことを求める自分の気持ちを1日だけでも犠牲として神様に捧げてみよう、と思ったのです。
 歩き始めたばかりのときは、なかなかいい気分でした。途中で何回も渋滞に巻き込まれて止まってしまうバスに比べれば、歩いてどんどん進んでいくのは気持ちがよかったからです。ですが、歩いても歩いてもなかなか目的地は近づいてきません。乾期である12月のカルカッタの空気は、排気ガスや土煙で汚れています。20分くらい歩いたところで、のどがひりひりと痛み始めました。30分たつとサンダルと足の指が擦れて痛み始めました。40分くらいたったところで、わたしは自分の思いつきを後悔し始めました。1時間ほど経ってようやく「死を待つ人の家」に着きましたが、そのときには顔は煤や土で真っ黒に汚れ、サンダルに擦れた足の指の間には血が滲んでいました。
 仕事が終わってマザー・ハウスに帰ったわたしが、真っ先に聖堂の飼い葉桶の前に行ったことはいうまでもありません。飼い葉桶にわらを入れながらわたしは、「バスに乗れない貧しい人たちが、どんな思いで道を歩いているのか教えてくださってありがとうございます。彼らの長い道のりの傍らに、いつでもあなたがいてくださいますように」と心から祈りました。今となっては、とてもいい思い出です。
 目を閉じると、あの日のマザー・テレサの声が今でも耳に響いてきます。クリスマスまでに、散らかり放題に散らかって足の踏み場もないようなわたしの心の中を少しは片づけなければなりません。
※写真の解説…長い道のりを貧しい人々ともに歩き続け、曲がってしまったマザー・テレサの足の指。