フォト・エッセイ(65) 近江散策③


 今のわたしにとって喜びの源になっているのは、ミサを立てること、そして司祭として教会の人たちと交わることだと思う。ミサを立てていると、ときに信じられないほどの霊的恵みを与えられることがある。それは、まぎれもなく司祭としてわたしが拠って立つべき土台だろう。だが、教会の人たちとの交わりにはどうも危うい要素が潜んでいるようだ。
 神学生時代と違って、今では信者さんたちはわたしを「神父様、神父様」と呼んで大切にしてくれる。これは人間として心地よいことだ。食事に招かれたり、プレゼントをもらったり、そのようなことのなかに喜びを見出すこともたびたびある。だが、それらの喜びを司祭職の土台にしてしまうのはあまりに危ういように感じる。
 信者さんたちの評価の中には確かに「天の声」が含まれていることが多いのだが、しかし当然ながら人間的な声もたくさん混じっている。信者さんと食事をする喜びの中には、兄弟的な愛で結ばれるという喜びの他に、肉体的欲求を満たすという人間的な喜びも混じっている。それらを注意深くよりわけないならば、人間的な声に惑わされ、欲望に溺れてしまう危険がある。その点、わたしに鋭い問いを発した神父様のように貧しい病者との関わりに喜びを見出しているような人は、誘惑の少ない堅固な土台を選んでいるといえるだろう。
 そんなことを考えているうちに、商家の家並みがわたしの前に姿を現した。江戸時代の商人たちの息遣いが聞こえてきそうなほど、よく保存された家並みだった。家並みの向こう側には、紅葉に彩られた八幡山も見えていた。商家の密集地を通り過ぎ、琵琶湖から引かれた水路沿いに歩いていくと、街外れの八幡山のふもとに出た。わたしは予定通りロープウェイで八幡山の山頂に上がることにした。
 山頂にある神社の脇を通って山の反対側に出ると、そこには琵琶湖を見渡す壮大な景観が広がっていた。対岸は霞に煙って見えないが、霞の向こうには遠く比良山系の山々が頭を出している。人間の小ささをいやというほど実感させるその景観の前に立ち尽くしながら、人間からの評価や、肉体的な快楽などに振り回されながら生きていくのは本当にもったいないことだと感じた。そのような小さな喜びをはるかにしのぐ喜びが、ミサを初めとする司祭としての奉仕の中に存在している。人間がもたらす喜びと神が与えてくださる喜びの大きさは、まるで比較にならない。いつも神から与えられる喜びだけを拠り所として生きていきたいものだと、そのときしみじみ思った。







八幡山からの風景と、山上の紅葉。