やぎぃの日記(13) 神戸のもう一つの顔


 昨日の晩、教会の若者たち数人と一緒に夜回りに行ってきた。前回は三宮駅の周りを歩いたのだが、今回は大倉山公園や湊川公園の方を車と徒歩で周るコースに参加させてもらった。2週間前と比べると空気もだいぶ暖かく、風もない穏やかな夜だった。
 大倉山や湊川という場所は、日雇い労働をしている人たちが昔から多い地域だそうだ。実際に周ってみると、仕事にあぶれて簡易宿舎にも入れなかった人たちが公園や駅の構内でうずくまったり、寝たりしているのに何回も出会った。カイロやみそ汁を配り、「体に気をつけてくださいね」などと声をかけながら歩いたのだが、疲れと悲しみを帯びた彼らの顔を見ていると本当に心の底から「なんとか彼らが無事にこの冬を過ごせますように」と願わずにいられなかった。
 神戸は、港を中心として繁栄してきた街だ。荷揚げや貨物運搬のためにたくさんの労働者たちが港で働き、神戸の発展を支えてきた。わたしが普段歩いてきれいだなと思っている三宮や元町、六甲などの豊かさは、彼らの労働によって支えられていると言ってもいいだろう。だが、神戸の街を観光で訪れる人々は、ほとんどそのことに気付かないだろうと思う。わたし自身、神戸に半年住んでいても、実際に港やその周辺の工場などで働いている日雇い労働者たちと出会ったのは昨日が初めてだった。
 彼らこそ神戸の繁栄を支えている最大の功労者なはずなのに、彼らが置かれた立場は限りなく弱い。会社の経営状況しだいでいつ仕事を切られるかわからないし、病気やけがで働けなくなれば、ほとんど何の保証もなく路上に放り出されてしまう。非正規雇用によって支えられた経済構造の中で、そのような立場に追いやられている彼らは、まさに「小さくされた人々」と言えるだろう。
 「わたしたちは、貧しく弱い立場に追いやられ、大切な人間関係を断たれてしまっている人々、人間らしい生活が損なわれ、あるいは妨げられている人々の側に立って、この世界を見ていかなければなりません」 と、昨日発表された日本カトリック司教団のメッセージは述べている。まず彼らの生活の場に近づき、彼らの一人ひとりを知ることから始めたいと思う。
※写真の解説…夕暮れ時の神戸港