入門講座(23) 貧しい人々と共に

《今日の福音》マタイ18:12-14
 イエス様は、100匹の羊のうち1匹でも迷い出る羊がいれば、99匹を安全な場所に残してその羊を探しに出かけられる方です。迷子の羊が反省して戻ってこなくても、自分から探しに出かけていくのです。
 自分は迷っていない羊だと思っている人は、この話を聞いて困ったことだ思うかもしれません。ですが、わたしたちはほとんどの場合探してもらう迷子の羊でしょう。神様は、自分の進むべき道も知らずにさまよっている私たちを、なんとか一人でも「神の国」へ導きたいと望んでおられます。群れから外れた人こそ、神様に救われる必要があるのです。

《貧しい人々と共に》
 現代のキリスト教は、世界の貧困に直面したとき「貧しい人たちを無視して、自分たちだけが救われるような宗教でいいのか」という深刻な問いを突き付けられました。貧しい国では、教会の前で人々が飢えや渇きに苦しんでいるのを知りながら、教会でミサを立てなければならないキリスト教徒たちもいます。そのような人たちにとって、この問いがどれほど深刻なものであったか想像に難くありません。この問いへの答えとして生まれたのが、今日ご紹介する「解放の神学」です。
 参考までに、世界食糧計画の最新の統計によれば、現在飢えや栄養不良で苦しんでいる人が地球上に8億5000万人おり、そのうち3億5000万人は子どもです。それが原因でいのちを落とす人が、1日に2万5000人おり、そのうち1万8000人は子どもです。6秒に1人の子どもが、餓えのために命を落としているということになります。

1.「解放の神学」とは何か
(1)定義
 貧しい人々の存在に直面し、彼らと共に生きながら彼らに福音を伝えることを選んだ神学者たちが、聖書を貧しい人々の視点から解釈して「解放の神学」を作り上げました。簡単に言えば、「解放の神学」とは、人間らしく生きることができないほどの貧しさに苦しめられている人たちを、イエスの福音によって解放することを目指す神学だと言えるでしょう。
(2)出発点と展開
 「解放の神学」にもさまざまな種類がありますが、それらすべての共通点は、貧しい人々との出会いから生まれたということです。貧しい人たちのために自分たちに何ができるのか、どうしたら彼らに福音を伝えられるのかということから「解放の神学」が始まったのです。
 南米の貧しい農民や労働者たちとの出会いから生まれたものが一番有名ですが、他にもアメリカにおける黒人解放のための神学、女性解放のための神学、アジア各地で貧しい人々との出会いから生まれてきた神学など、その内容は多岐にわたっています。今後もし、HIV陽性の人たちとの出会いやさまざまな障害を負った人たちとの出会いから神学が生まれてくるならば、それらも「解放の神学」と呼んでいいかもしれません。

2.社会的存在としての人間
(1)伝統的な救済観
 伝統的な神学では、人間の救いはイエス受肉と十字架・復活によって始まり、終末において完成することが強調され、終末に至る途中の人間がどのようにして救われるのかということへの言及があまりありませんでした。また、伝統的な神学では、個人の魂がイエス・キリストとの出会いによって救われることが強調され、全人類が具体的にどのようにして救われるのかということへの言及もあまりありませんでした。
(2)「解放の神学」の救済観
 それに対して、「解放の神学」は終末に至るプロセスにある人間が、どのようにして救われていくのかということを具体的に考えようとします。また、「解放の神学」では、個人の魂が救われるためには、その個人が属している社会全体が救われる必要があると考えます。隣に苦しんでいる人たちがいるのに、その人たちを無視して自分たちだけが神によって完全に救われることはないと考えるのです。

3.貧しい人々の優先的選択
 「解放の神学」は、神が貧しい人々を優先して救うと主張します。神は、まず苦しんでいる人々の神だというのです。その聖書的な根拠は次の通りです。
(1)神の論理
 出エジプト記3章に次のような記述があります。
「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。・・・見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。」
 神は、苦しんでいる人々の叫びに耳を傾け、彼らを救いだすためにモーセを送りました。神は、人々の苦しみを無視するような方ではなく、彼らの叫びに耳を傾け、救いの手を伸ばす方なのです。
 また、ルカ福音書の2章では、天使が貧しい羊飼いたちに
「今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった」
と告げています。「あなたがた」、すなわち貧しい羊飼いたちのために、救い主イエス・キリストが生まれたというのです。神は、貧しい人々を優先的に選ぶ方だということがこの記述から分かります。
(2)キリストの言動
 イエスは、ルカ6章で
「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである」
 と宣言しています。貧困にあえぐ人たちのために、「神の国」があるというのです。
また、7章では、
「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」
 とも述べています。障害者、病人、貧しい人々などに福音が告げ知らされることこそが、「神の国」の到来のしるしだというのです。
 さらにイエスは、ルカ10章の有名な「よいサマリア人のたとえ」の中で、傷ついて苦しむ人を助けたサマリア人のように愛を実践することを律法学者に求めています。苦しんでいる隣人を助けることこそが、神の最高の掟だというのです。
(3)終末論的根拠
 マタイ福音書25章は、最後の審判でのキリストによる裁きの基準を、貧しい人たちに対する愛の実践に求めています。
「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」
 というのです。貧しくて食べる物、着る物、住むところがない人、刑務所に入れられている人、そのような人たちに向けられた愛は、イエス・キリストへの愛に他ならないというのです。
(4)教会論的根拠
 以前に教会についてお話ししたとき、「教会は全人類のための救いの秘跡」だという話をしました。このことは、教会が貧しい人たちに対しても神の愛の目に見えるしるしとなる使命を負っていることを意味しています。教会は、貧しさの中で苦しんでいる人たちに対して、目に見える愛の業を行う義務を負っているのです。
 ヤコブの手紙は、次のように述べています。
「もし、兄弟あるいは姉妹が、着る物もなく、その日の食べ物にも事欠いているとき、あなたがたのだれかが、彼らに、「安心して行きなさい。温まりなさい。満腹するまで食べなさい」と言うだけで、体に必要なものを何一つ与えないなら、何の役に立つでしょう。信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。
 神の愛を説くだけで、目の前にいる貧しい人たちに対して何も助けの手を差し伸べないならば、一体誰が教会の教えを信用するでしょうか。

4.豊かな人たちはどうなるのか?
(1)イエスは誰のために来たのか
 では、豊かな国に生きていて、物質的に満ち足りた生活をしている人たちはどうなるのでしょう。物質的には満たされているけれども、心が飢えた人たちを神は放っておくのでしょうか。
 イエスは全人類の救いのために遣わされました。ですから、貧しい人たちだけを救うために来たのでないことは明らかです。ただ、全人類の救いの業を始めるに当たって、まず貧しい人々の救いから始めたということでしょう。全人類を救うために、まず貧しい人たちを救ったのではないかとわたしは思います。
 豊かな人々、当時の体制に満足していた人々は、神の愛よってその体制を覆す恐れがあるイエスの言葉を受け入れたがりませんでした。物や地上の権威に依存する豊かな人々に自分の無力さを思い知らせ、謙虚に神だけをより頼む心を思い出させるため、神はあえて貧しい人々から救いの業を始めたのかもしれません。
(2)現代の福音宣教
 現代においても同じことが言えるでしょう。富や権力に依存し、傲慢な生き方をして神の教えに耳を傾けない人たちは、神が差し出した救いの手を自ら振り払っているようなものです。彼らの依存する富や権力の陰でどれだけ苦しんでいる人がいるかを彼らに気づかせ、富や権力をはるかに越えて偉大な方が存在することを思い出させることは、教会の大切な使命だと思います。
 そのために、教会は率先して貧しい人たちと関わっていく必要があるのです。教会が率先して貧しい人々に愛の手を差し伸べていくとき、それを見た豊かな人々は神の愛がどのようなものであるかを知るのではないでしょうか。マザー・テレサの姿を見た多くの人たちが神の愛に気づいたことから分かるように、貧しい人々との関わりは教会にとって最大の福音宣教になる可能性を秘めています。

5.救いの業への参加
(1)救済史
 神がこの地上に救いを実現していく歴史的なプロセスのことを、救済史と呼びます。天地創造から始まって、出エジプトノアの方舟預言者へのお告げなどを通して神は人類を救おうと働きかけ、ついに時が満ちてイエス・キリストにおいて救いを完成したと考えられます。イエスの後、人類の歴史はイエスの生涯によって先取りされた終末的完成へと向かって進んでいくことになります。
(2)「神の国」の実現
 前回お話しした通り、終末的完成とは「神の国」の実現に他なりません。「解放の神学」は、「神の国」の実現が人間の努力の延長線上にあると考えています。わたしたちが地上に「神の国」を実現していこうとする努力があって、その先に神の介入による「神の国」の完成があると考えるのです。
 そのため、「解放の神学」は、貧しい人たちのために教会が政治的な活動も含めて積極的な行動をとることを求めます。そのような活動に関わり、「神の国」の実現、すなわちすべての人が神の子として人間らしく生きられる世界の実現のために努力することこそが人間の生きる意味だと考えるからです。
(3)終末的完成への希望
 ですが、「解放の神学」も人間の努力だけでは「神の国」がやって来ないということは認めます。「神の国」は、終末における神の力の介入によってのみ完成するものなのです。「解放の神学」は、最後には神が介入して世界を根底から変えてくれることに希望をおきつつ、人間の力でできる限りのことをしていこうと呼びかけています。

6.問題点
 わたしが感じている「解放の神学」の問題点は、貧しい人々の現状に共感するあまり、貧しい人たちと直接関わらない信徒はキリスト教徒としてふさわしくないという考え方に陥っていく可能性があることです。自分たちはスラム街に住んで貧しい人たちのために働いているから正しいキリスト教徒で、大きな会社や学校、教会などで働いている人たちは不完全な実践しかしていないキリスト教徒というような見方に陥ってしまうと、それは大きな問題だと思います。
 「解放の神学」を声高に叫ぶ前に、自分の生活を守るため誰もがつらい思いをじっと耐えながら懸命に生きているのだという事実を、まず真摯に受け止める必要があるでしょう。その上で、貧しい人たちとの関わりがそのような「普通の人たち」の救いとどのようにつながるのかを明らかにしていくことが、「解放の神学」の今後の課題ではないでしょうか。

《参考文献》
・Haight, Roger, “An Alternative Vision”, Paulist Press, 1985.
・Haight, Roger, “Jesus Symbol of God”, Orbis Books, 1999.
・ボフ、レオナルド、ボフ、クロドビス共著、『入門解放の神学』、新教出版社、1999年。