バイブル・エッセイ(36) 召し出しの不思議


  六か月目に、天使ガブリエルは、ナザレというガリラヤの町に神から遣わされた。ダビデ家のヨセフという人のいいなずけであるおとめのところに遣わされたのである。そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。
「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる。」
 マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。すると、天使は言った。
「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた。あなたは身ごもって男の子を産むが、その子をイエスと名付けなさい。その子は偉大な人になり、いと高き方の子と言われる。神である主は、彼に父ダビデの王座をくださる。彼は永遠にヤコブの家を治め、その支配は終わることがない。」
 マリアは天使に言った。
「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに。」
 天使は答えた。
聖霊があなたに降り、いと高き方の力があなたを包む。だから、生まれる子は聖なる者、神の子と呼ばれる。あなたの親類のエリサベトも、年をとっているが、男の子を身ごもっている。不妊の女と言われていたのに、もう六か月になっている。神にできないことは何一つない。」
 マリアは言った。
「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身に成りますように。」
 そこで、天使は去って行った。(ルカ1:26-37)
 
 山深い田舎町ナザレに住むごく普通の少女マリアのもとに、突然天使が現れ、マリアがやがてダビデの王座に就く男の子イエスの母となることを告げました。マリアは驚いて「どうして、そのようなことがありえましょうか」と答えましたが、それはもっともなことだと思います。なぜ田舎町に住むごく普通の少女であるわたしがそれほど偉大な人物の母になるのか、しかもまだ結婚していないのに、マリアがどれほど驚いたかは想像にかたくありません。
 神様がこの地上に救いの業を行われるときのなさり方は、本当に不思議だと思います。ダビデ王は、羊飼いの少年であったのに召し出されて王座につき、神の栄光を地上に現わしました。そして今、田舎娘のマリアからダビデの王座につく男の子が生まれ、全人類の救いを完成するというのです。神様は、とるに足りない普通の人間を、偉大な救いの業のための道具として選ばれるようです。
 わたし自身のことを考えても、同じことが言えます。わたしは埼玉県の田舎の街でごく普通の農家の子どもとして生まれ、泥にまみれて育ちました。特に優れたところがあったわけでも、家柄がよかったわけでもありません。もし子どもの頃のわたしに天使が現れて、「あなたはいつか、たくさんの人の前で神の教えを語ることになるでしょう」と告げたとしたら、きっとびっくり仰天して「どうしてそんなことがありえるでしょうか」と答えたに違いないと思います。
 神様は、とるに足りないわたしたち一人ひとりを、偉大な救いの業のためにお使いになります。いつどんな呼びかけを聞いたとしても、マリアと心を合わせて「わたしは主のはしためです。お言葉どおり、この身になりますように」と言って受け入れられるよう、心を準備していたいものだと思います。
※写真の解説…多摩川の流れ。鳩ノ巣渓谷付近にて撮影。