バイブル・エッセイ(40) 神を愛する


 わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。
 わたしたちが愛するのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者がいれば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。(1ヨハネ4:16-21)
 
 誰かを愛するというのは、誰かのために自分の大切なものを差し出すということでしょう。最高の愛は、自分が持っているものをすべて相手に差し出すということだと思います。ですから、わたしたちが何よりも神を愛するというとき、それは神様のために自分の大切なものをすべて差し出すということを意味しています。
 「神を愛している」という言葉が真実であるかどうかは、日々の生活の中で明らかになります。たとえば、厭味や悪口で自分を悩ませるような人を、わたしたちは受け入れることができるでしょうか。そのような人も神様は自分の大切な子どもとして愛しておられますし、わたしたちにも同じようにその人を愛するように望んでおられます。もしその望みに反して「わたしはそんな人を受け入れられません」と言うのならば、わたしたちはまだ神様に自分の全てを差し出しているとは言えないでしょう。自分のプライドや感情を、自分の手元に残しているからです。
 忙しい時に悩みを相談してくる人やいろいろと頼みごとをしてくる人、そのような人たちを自分の時間がもったいないから、他に楽しいことが待っているからというような理由で拒むとき、わたしたちは「神を愛している」という自分の言葉を裏切ることになります。神様のために自分のすべてを差し出しますと言いながら、実際には時間や楽しみなどを自分の手元に残そうとしているからです。口先ではいいことをいいながら、実際には神様に何も差し出したくないのです。
 ですから「神を愛している」と言いながら、自分の悪口を言う兄弟姉妹や自分に迷惑をかける兄弟姉妹を受け入れられないならば、わたしたちは「偽り者」になります。日々の生活の中で自分のプライド、時間、楽しみなどをすべて神様に差し出すことによって、「神を愛している」というわたしたちの言葉が真実であることを証していきたいものです。
※写真の解説…教会の庭に咲いているヒマラヤ桜。今年は開花が少し早いらしい。