フォト・エッセイ(82) 冬の京都④〜高台寺から銀閣寺へ〜


 建仁寺から高台寺に向かった。高台寺建仁寺と同じ臨済宗の寺で、特に豊臣秀吉とその妻ねねを祀るために建てられたそうだ。秋に行ったときには紅葉に夢中だったので気付かなかったが、高台寺にも立派な枯山水の庭がある。紅葉のような華やかさはないが、座ってじっと見ているとなかなか味わいのある庭だ。
 建仁寺でゆっくりしすぎたので、高台寺からは少し急ぐことにした。高台寺の後、浄土宗の総本山である知恩院に立ち寄った。何回か行ったことがあるが、あらためてその規模の大きさに驚いた。本堂でお経をあげていたので、しばらくの間その独特の調べに耳を傾けた。本堂全体に響き渡る2人の若い僧侶の澄んだ声に、心が洗われるような気がした。ミサも、聴いているだけで癒されるくらいになればいいのかもしれない。お経の荘厳さと歌ミサの荘厳さには共通点があるような気もする。
 知恩院を出てから、途中で法然が最初に浄土宗の教えを説いた黒谷の地にある金戒光明寺真如堂に寄り、哲学の道を通って銀閣寺へと向かった。さすがに最後は歩き疲れたが、途中で景色をカメラに収めながらゆっくり歩いてなんとか銀閣寺にたどりついた。ところが、参拝券の売り場で思わぬ事態に出くわした。なんと、銀閣寺は今修理中だというのだ。どうしようかなと迷ったが、ここまで来て引き返すのももったいないしその他の建物と庭園だけは参拝できるとのことだったので、しばらく考えて入ることにした。
 銀閣寺には「銀沙灘」という少し変わった庭がある。盛り上げた砂の上に、波のような模様を大胆に刻みこんだものだ。歩き疲れていたこともあって、その庭が見える縁側に座ってしばらく休んだ。
 波は、枯山水の庭に共通のモチーフの一つだと思う。わたしたちの心を水に例えるならば、その水面には絶えず波立っている。五感を通して、常に何かが投げ込まれているからだ。波が一定の形を取らないように、わたしたちの心も一つの形に留まるということがない。「わたし」というのは、刻々と形を変えていく波につけられた名前にすぎないのかもしれない。
 「銀沙灘」を見ながら、そんなことを考えているうちにだんだん体が冷えてきた。庭を一周した後、近くのバス停から京都駅へと向かった。いろいろなことを考えさせられた1日だった。







※写真の解説…1枚目、高台寺から知恩院へ向かう途中で見つけたサザンカ。2枚目、高台寺の庭。3枚目、哲学の道に咲いたミツマタ。4枚目、銀閣寺の「銀沙灘」。