フォト・エッセイ(86) 竜安寺の庭


 北野天満宮茶店でみたらし団子を食べた後、歩いて竜安寺に向かった。駅の案内所で、改修工事が終わって公開されたと聞いたからだ。だが行ってみると実際にはまだ工事が続いており、庭の隅の方には工事用のシートが掛けられていた。少し残念だったが、不完全な姿の庭もまた禅らしくていいと思って気を取り直した。坐禅をするとき、半分眼を閉じて世界を見るという流派もあるという。そう思ってみれば、一部が隠された庭もまた味わい深い。
 縁側に腰掛けて庭を見ているうちに、いろいろな想像が湧き上がってきた。庭全体を人間の心と見るならば、直線や曲線の模様がつけられた小石の部分は落ち着いた穏やかな心を示しているように思える。人間の心の常として絶えずさざ波が立ってはいるものの、心を乱すほどの大波ではない。ところどころに突き出た岩、それはおそらくわたしたちの心の中にある傷や執着などを示しているのだろう。穏やかな心の海からところどころ突き出た岩は、わたしたちの心を乱すと同時に、その人の人格を作り出してもいる。
 1つ1つの岩は決して美しくないが、全体との調和の中で言いようのない魅力を生みだしている。見ているうちに、庭に引き込まれてしまいそうだった。
 そうやって庭に見入っていた時、どこからか「この庭には15の石が配置されていますが、全部を一度に見ることはできないのです」という案内の声が聞こえてきた。考えさせられる指摘だった。わたしは祈りの中で自分の心を見てどこに岩があるか分かっているつもりになっている。だが、1つの視点からは決して見通せないところにある岩もあるのだ。すべてを御存じなのは、上から見ている神様だけだろう。今、悲しみや執着によって乱されたわたしの心は、神様にどう見えているのだろうか。癒しの恵みを祈るばかりだ。







※写真の解説…1枚目、2枚目、竜安寺の庭。3枚目、「我唯知足」(我ただ足るを知る)と刻まれたつくばい。4枚目、庭を囲んでいる壁の裏側。