やぎぃの日記(31) ある視覚障害者の死


 昨日の通夜に続いて、今日は同じ方の葬儀ミサ、告別式、火葬の祈りを司式した。帰天されたのは、子どもの頃に事故あって失明した方だった。
 説教を準備するために、彼の生涯がどんなものであったのか思いめぐらしながら祈っていたとき、一つの疑問に突き当たった。目が見えないということは、彼にとって単なるハンディだったのだろうかということだ。もし神様が愛の神であるならば、幼い子どもから視力を奪うというのはあまりにも理不尽に思える。そのことで彼がどれだけ苦しんだかを思うと、神様に対して腹が立ってくる。だが、はたして神様はその事故によって彼にハンディだけを与えたのだろうか。
 どうも違うような気がする。もしかすると、彼は目が閉じられた苦しみを乗り越えていく中で、この世界をわたしたちとは全く別の仕方で見ることができるようになったのではないだろうか。
 人間の目は、太陽や電球が発する光が何かに反射して網膜に届いたときに、その何かを見たと認識する。だが、それで本当にその対象を見たことになるのだろうか。木々や草花、わたしたちの隣人の本当の姿を見たことになるのだろうか。わたしたちの世界を照らしている光は、太陽や電球の光だけではない。この世界は聖霊の光、イエス・キリストの光を浴びて輝く世界でもある。その光の反射によって木々や草花、隣人、この世界にあるすべてのものを見るときにだけ、わたしたちはそのものの本当の姿を見ることができるのではないだろうか。
 もしかすると、視力を失った彼は、その苦しみを通して聖霊の光に照らされた世界を見る恵みを与えられたのかもしれない。その恵みが彼の生涯を支え、人々から慕われる教師にまで育てていったのかもしれない。祈りの中で、そのような思いが強く湧き上がってきた。
 人間の目に見える世界だけがすべてではない。神の目から見たとき、聖霊の光の中で見たときにしか見えない世界もある。彼の死、彼の生きざまは、わたしたちにそのことを教えてくれているような気がする。
※写真の解説…北野天満宮の梅にとまったメジロ