やぎぃの日記(32) 再び死刑制度について考える


 ここのところ忙しい日々が続いていたが、昨日ついに熱を出して寝込んでしまった。38度くらいの熱だったのだが、久しぶりに熱を出したせいか関節が痛んだりして大変だった。昼間、教会学校の子どもたちのためにミサを立てたのと、夜「ともに考える会」で少し話した以外はほとんど寝たきりの一日だった。今朝になってようやく熱が下がって、だいぶ楽になってきた。
 今回の「ともに考える会」のテーマは死刑制度を考えるということだった。福岡で教師をしていた頃にも感じたことだが、死刑制度についての議論はいつも白熱する。ふだん授業にそっぽを向いている子どもたちでも顔を上げて積極的に授業に参加してくれる。それだけ身近な問題で、しかも人間の生死に関わる興味深いテーマだということだろう。テーマのお陰もあって、今回の「ともに考える会」は深みのあるものになったようだ。
 もし自分が被害者の遺族だったとして、犯人をゆるせるか。ゆるせないということと、犯人を殺さなければならないということは直結するのか。キリスト教が殺人を認めるのは正当防衛の場合だけだが、死刑制度は社会の正当防衛であると言えるのか。罪を犯した誰かを殺すかどうかの基準を、人間が作ることがゆるされるのか。誰かを殺すことでしか維持できない平和は、はたして本当の平和なのか。議論すべきことは尽きない。
 そもそも、わたしたちは誰も死刑制度と無関係でいることができない。日本の法律によって守られ、法律から利益を享受して生きている以上、その法律の一部である死刑についても責任を負っているからだ。拘置所で処刑が行われるとき、わたしたちもその殺人にある種の連帯責任を負っている。わたしたち自身が殺人の加害者なのだ。
 このような、社会構造に組み込まれた逃れ難い罪のことを神学では「構造的罪」と呼ぶ。世界経済システムの中で豊かな生活を楽しんでいる先進国の国民はすべて、アフリカやインドで餓えて死んでいく子どもたちの死に責任があるというのと同じ意味で、わたしたちは死刑囚の死に対して責任を負っている。「殺さないでくれ」と泣き叫びながら懇願する死刑囚の首に縄をかけているのは、ある意味でわたしたちなのだ。
 5月から裁判員制度が実施されるお陰で、わたしたちはこの責任をこれまでよりもはっきりと感じることができるようになる。わたしたちはこの責任を背負えるのか。犯罪者とはいっても、わたしたちと同じ血の通った人間を殺すことに耐えられるのか。この問いに、一人ひとりが真剣に向かい合うべきときが来ているように感じる。
※写真の解説…新宿御苑福寿草