入門講座(34) ジャン・バニエの霊性

《今日の福音》マタイ23:1-12
 イエスが律法学者やファリサイ派の人々を厳しく批判する場面の最初の部分です。この場面を理解するためには、マタイ福音書がどのような共同体の中で書かれたかを思い出す必要があります。マタイ福音書の共同体は、改宗したユダヤ人を主なメンバーとするユダヤ教と緊密な関わりを持った共同体でした。そのため、律法学者と深刻な対立を生じることも多かったと考えられます。距離が近ければ近いほど、対立も激しくなるということです。マタイ福音書記者が記すイエスが律法学者たちを激しく批判する背景には、そのような事情があったと考えられます。
 「聖句の入った箱」は出エジプト記13章9節に、「衣服の房」は民数記15章38節に由来しています。マタイ9章20節を読むと、イエス自身も律法学者たちと同じく房のついた服を着ていたことが分かります。イエス自身も、人間を軽んじるような律法以外は忠実に律法を守っていたのです。
「先生」とか「父」という呼称についてですが、プロテスタントでは牧師を「先生」と呼び、カトリックでは司祭を「神父」と呼ぶので困ってしまいます。伝統的な呼称なので仕方がありませんが、「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる」というイエスの言葉を忘れないようにしたいと思います。

《ジャン・バニエの霊性
 今年度の入門講座の最後として、今回はジャン・バニエの霊性を紹介したいと思います。本当はジャン・バニエについて2回使って講義する予定でしたが、風邪で1日休んでしまったため1回だけの短い紹介になってしまうことをお詫びします。
 わたしはこの10年くらい静岡にある「ラルシュ・かなの家」という知的障害を負った人たちのための共同体と関わってきましたが、ジャン・バニエは全世界に広がるラルシュ共同体の創立者です。「かなの家」に行くたびごとにジャン・バニエの本を読み返していますが、読むたびに新しい発見や考えさせられることが出てきます。ジャン・バニエは、競争原理が支配する現代社会に生きるわたしたちにとても多くのことを教えてくれる人物だと思います。

1.ジャン・バニエの生涯
(1)年譜
 ジャン・バニエは現在もフランスのトロスリー村で障害者たちと共に生活を続けていますが、彼がこれまでに辿ってきた道のりを年譜形式で確認してみたいと思います。
1928年 後の大英帝国カナダ総督ジョージ・バニエの息子として、スイスのジュネーブで誕生。
⇒父親が国際連盟付き武官だった関係で、ジャン・バニエはスイスで誕生しました。しかし、初等教育はロンドンで受けています。
1939年(11歳) パリで教育を受けるため、母と共にパリに移住。
1940年(12歳) ナチス・ドイツの侵攻により、イギリスに帰国。
1942年(14歳) イギリス海軍士官学校に入学。
1945年(17歳) 連合軍によるパリ解放後、パリで国際赤十字によるユダヤ人支援活動に参加。
1945年(17歳) カナダ海軍に入隊。
1950年(22歳) カナダ海軍を除隊。パリ・カトリック大学で哲学と神学を学ぶ。
⇒父に倣って海軍に入りはしたものの、日々の厳しい訓練と激しい競争の中で、ジャン・バニエは軍人が自分の生涯の仕事ではないと思うようになっていきます。父が優れた軍人だったことによるプレッシャーもきっとあったでしょう。
1950年(22歳) ドミニコ会のトマス・フィリップ神父と出会う。
⇒フィリップ神父は、知的障害者のための共同体「オ・ビーブ」を運営していました。ジャン・バニエは、しだいにフィリップ神父を霊的な指導者として仰ぐようになっていきます。
1963年(35歳) アリストテレスについての研究で、パリ・カトリック大学から博士号を与えられる。
1963年(35歳) トロント大学の教員に採用される。
1964年(36歳) 一時帰国してフィリップ神父の活動を手伝っていた時、神からの呼びかけを感じる。
1964年(36歳) 大学を退職して、パリ近郊のトロスリー・ブルイユ村にラルシュ共同体開設。
⇒当時、フランス政府が知的障害者支援に力を入れていたこともあり、ジャン・バニエは政府の援助金をもらってフィリップ神父とは別の共同体を設立しました。
1968年(40歳) トロントで黙想会を指導。
⇒この黙想会をきっかけとして、翌年トロント郊外に 「ラルシュ・デイ・ブレイク共同体」が設立されました。この共同体は、ヘンリー・ナウエンが最後の10年間を過ごしたことで知られています。
1970年(42歳) インドに「ラルシュ・アシャニ・ケタン共同体」を設立。
1971年(43歳) 障害者によるルルドへの巡礼を呼び掛ける。
⇒この巡礼には、なんと12,000人が参加したそうです。
1971年(43歳) ルルドへの巡礼をきっかけとして、マリー・ヘレン女史と共に「信仰と光運動」を開始。
⇒「信仰と光運動」は、施設ではなく自宅で生活する障害者とその家族たちが共に祈り合い、支え合いながら生きていくことを目的にした運動で、全世界に広がっています。
1972年(44歳) ラルシュ世界連盟第1回総会を開催。
1978年(50歳) ラルシュ世界連盟第4回総会を契機に、ラルシュのアイデンティティーの模索が始まる。
⇒これ以降、ジャン・バニエはスタッフの黙想指導に力を入れるようになっていきます。
1979年(51歳) “COMMUNITY AND GROWTH”出版。
1986年(58歳) ヘンリー・ナウエン、「ラルシュ・デイ・ブレイク共同体」に参加。
ハーバード大学教授であり、ベストセラー作家、テレビ伝道師でもあったナウエンが、大学での仕事を捨ててラルシュに参加したことで、ラルシュの存在がより広く世界に知られていくようになりました。ナウエンは、1996年に帰天するまでの10年間をラルシュで過ごしました。
1987年(59歳) 来日。神戸市の郊外で黙想会を指導。
⇒この黙想会の参加者の1人が、後に静岡で日本における最初のラルシュ共同体「かなの家」を創立した佐藤仁彦さんでした。
1998年(70歳) “BECOMING HUMAN”出版。
2009年(81歳) トロスリー・ブルイユ村で、障害者たちと共に生活を続けている。
⇒現在までにラルシュ共同体は、世界30ヶ国に131の共同体を持つに至っています。
(2)ジャン・バニエ自身の言葉
・神からの呼びかけについて
「大きな見通しがあったわけではありませんが、イエスがわたしに何かをしてほしいと望んでいるとはっきり感じました。わたしは当時、今もですが、とても単純なのです。多くのことを尋ねはしませんでした。わたしの心は開かれていましたし、いつでも使っていただく準備ができていたのです。わたしはイエスに従い、福音のままに生きたかったのです。」
・ラルシュの創設について
「知的障害を負った人たちが中心の共同体を作り、彼らに家族、彼らの存在のすべての側面が成長することができ、イエスの福音を見つけることができる居場所を与えること、わたしはそれだけを望んでいました。」
・貧しい人々について
「空腹な人、身捨てられた人、貧しい人は、何よりもまず他の人の心を探し求めているのです。誰か耳を傾けてくれる人、理解し、愛してくれる人が欲しいのです。貧しく打ちひしがれた人たちは、誰かが彼らに『わたしはあなたを愛しています。あなたを信頼しています。あなたは美しい。あなたは他の人の生きがいになることができる』と語りかける声を聞きたいのです。このような声が、彼らに新しい自信、新しい力、新しい希望を与えるのです。」
2.ジャン・バニエの霊性
 今回は、ジャン・バニエの霊性を3つのキーワードで紹介してみたいと思います。
(1)弱者のための福音
「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。」(マタイ11:25)
 聖書のこの箇所を引用しながら、ジャン・バニエは次のように言います。
「神は、この世の知恵を辱めるために、賢い者よりも愚かな者を選ばれました。強い者よりも弱い者、この世でもっとも侮られ、軽蔑されている人々を選ばれました。おそらくこれが、キリストの福音、喜びの知らせの核心をなすものです。」
 ジャン・バニエにとって福音とは、世間から愚か者、役立たずと見なされている弱者にこそ神様の愛が豊かに注がれているという事実に他ならないようです。この福音を言葉と生活で力強く証したイエスに従うことが、彼の召命だったと考えていいでしょう。
ジャン・バニエは、他にルカ1章のマリアの賛歌や羊飼いたちに天使が現れる場面を好んで引用します。神が弱者を特別に愛していることを示す箇所だからです。
(2)弱者による解放
 無力な弱者と見なされている人たちは、しかし単に福音を受け取るだけの存在ではありません。ジャン・バニエは次のように言っています。
「わたしは長い間、知的障害者と言われる人々、いわゆる社会で弱い立場にある人々と共に暮らしてきました。そして今や、この人たちこそ、わたしたちの解放者であると、はっきり確信するようになりました。」
 社会で弱者と思われている知的障害者たちに福音を伝えたいという熱意で活動を始めたジャン・バニエでしたが、実際に彼らと生活を共にしていく中で実は自分自身こそ知的障害者たちから多くのことを学び、解放されていくべき弱者であることに気づいていきます。
 ジャン・バニエは次のように言っています。
「愛するとは、その人の存在を喜ぶことです。その人の隠れた価値や美しさを、気付かせてあげることです。人は、愛されて初めて、愛されるにふさわしいものになります。」
 知的障害者たちをありのままに受け入れ、その存在を喜ぶためには、まず自分が自分自身を受け入れ、自分の存在を喜ぶ必要があります。もし自分の中にコンプレックスがあれば、他者をありのままに受け入れるのは困難です。それは、次のような理由からです。
「人が他者を拒絶する理由はたぶん、自分はもっと善良で有能な存在だと実感したいからでしょう。こうして人々を見下し、拒絶し、非難し、笑いの種とし、あざ笑うことをやめようとしないのです。」
 劣等感と優越感は表裏一体です。劣等感を抱いて自分をありのままに受け入れられない人は、他者をありのままに受け入れることもできません。ありのままの自分ではだめで、「理想のわたし」にならなければ生きている価値がないと思いこんでいる人は、「理想のわたし」になることができない自分や他者を責め続けることになります。ジャン・バニエは次のように言っています。
「神は、わたしが思い描く『理想のわたし』を愛して下さるのではなく、自分が今の自分であることをゆるしてくださり、そのままのわたしを愛してくださるのです。」
 知的障害者たちと共に生きる中で自分自身の弱さに直面させられ、もがき苦しむ中でジャン・バニエは自分自身が作り上げた「理想のわたし」像こそが自分や自分の周りにいる人たちを苦しめていることに気づいていきます。この気づきは、彼をイエスとの出会いに導いていきました。
「わたしたちは、自分の内にある痛みや苦悩の原点に触れてこそ、真に他者のことを理解できるようになります。そして、人を裁いたり断罪したりできなくなります。それは、自分の惨めさに触れることで、イエスとの真実な出会いを体験し、神の憐みを理解できるからです。」
 ジャン・バニエは、知的障害者たちと共に生きる中で、イエスとの真実な出会いへと導かれていったのです。その意味で、知的障害者たちはジャン・バニエにとって解放者だったと言えます。
(3)弱者として共に生きる
「別に強くなろうとする必要はないし、傷つくまいと壁を築く必要もない。むしろ、弱くて脆い面を持った自分、あるがままの自分でよいのだ。なぜなら、私の弱さは他の人からの助けが必要なことを教え、他の人の弱さは、その人がわたしの助けを必要としていることを教えるからだ。」
 知的障害者たちと共に生きる中で、ジャン・バニエはしだいにこう思うようになっていきました。弱者である人間は、自分だけで生きていくことができない。互いに助け合うことで初めて「神の国」に向かって進んでいくことができる。自分が強者だと思っている限り自分の狭い殻の中でもがき続けるしかないが、自分が弱者だと認めて互いに助け合うならば共に「神の国」へ向かって進んでいくことができる。ジャン・バニエはそのことに気づいたのです。
このようなジャン・バニエの霊性に支えられたラルシュ共同体は、強者が弱者を助ける共同体ではなく、弱さを抱えた人間が互いを支え合いながら生きていくための共同体だということができるでしょう。

3.まとめ
 ジャン・バニエの本を読んでいると、ジャン・バニエ自身が成長の過程で深く傷ついた人だったということがよく分かります。知的障害者たちと共に住み、自分自身の傷と向かい合う中で、彼はしだいにイエス・キリストの救いへと導かれていったのです。今回、紹介できませんでしたが、晩年ラルシュに参加したヘンリー・ナウエンもジャン・バニエと似たタイプの人です。彼らの霊性は、成長の過程で大きな傷を受けることもなく、ただまっすぐイエス・キリストに向かって進んでいったマザー・テレサ霊性とはずいぶん違うと言えるでしょう。
 今回、違ったタイプの霊性を持った2人の人物を紹介しました。どちらからも、学ぶべきことが本当に多いと感じます。彼らを参考にしつつ、わたしたちも自分なりのやり方で神様の呼びかけに応えながら生きていきたいものだと思います。

《参考文献》
・Vanier, Jean, “An Ark for the Poor”, Novalis/Geoffrey Chapman/Crossroad, 1995.
・Vanier, Jean, “Community and Growth”, Paulist Press, 1979.
・Vanier, Jean, “Becoming Human”, Paulist, Press, 1998.
・ジャン、バニエ、『小さき者からの光』、あめんどう、1994。
・ジャン、バニエ、『心貧しき者の幸い』、あめんどう、1996。
・Spink, Kathryn, “Jean Vanier and l’Arche” , Crossroad, 1991.
・Nouwen, Henry, “The Road to Daybreak”, Doubleday, 1988.