バイブル・エッセイ(54) 一点一角に至るまで

 このエッセイは、3月18日に援助修道会六甲修道院で行ったミサでの説教に基づいています。

「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」(マタイ5:17-19)
 形だけ神への忠実さを装う律法を完成し、形も心も神にすべてを捧げつくす真の律法を打ち立てるためにイエスは来られました。神を愛し尽し、神への愛ゆえに隣人のために自分を捧げ尽すこと、それがイエスの打ち立てた真の律法です。
 この律法は、一点一角に至るまでゆるがせにすることができないと思います。「愛し尽くす」とは、生活の細部に至るまで、自分のすべてを神に捧げ尽くすことだからです。神への愛ゆえにどんな小さなことであっても神を悲しませたくないと思う心、それがイエスの心であり、律法ではないでしょうか。
 もっと具体的に言えば、「神を愛し尽くす」とは日常生活の中で一つひとつのことを丁寧に、心を込めてするということでしょう。していることがどんなに目立たない小さなことであっても、話している相手が誰であっても、心を込めて丁寧に向かい合っていくこと。それが、神を愛するということに直結しているのだと思います。エスが十字架上で示してくださったように、神を愛するとは神のために自分を犠牲にするということに他なりません。口で語るだけではなく、日常の小さな行ないを通して神への愛を証していきたいものです。
 それは、あまりにも厳しい要求だと思う人もいるでしょう。ですが、この律法は厳しいと同時に「天の国」に直結したものでもあります。わたしたちは、神への愛ゆえに自分を差し出せば差し出すほど「天の国」としっかり結ばれ、「天の国」の喜びで満たされていくのです。喜びのうちに、イエスの律法を一点一角にいたるまで守り抜いてゆきたいものです。
※写真の解説…箱根、「彫刻の森美術館」のステンドグラス。