バイブル・エッセイ(55) しるしを求める

 このエッセイは、3月23日に行われた朝のミサでの説教に基づいています。

 エスは、再びガリラヤのカナに行かれた。そこは、前にイエスが水をぶどう酒に変えられた所である。さて、カファルナウムに王の役人がいて、その息子が病気であった。この人は、イエスユダヤからガリラヤに来られたと聞き、イエスのもとに行き、カファルナウムまで下って来て息子をいやしてくださるように頼んだ。息子が死にかかっていたからである。
 イエスは役人に、「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ決して信じない」と言われた。役人は、「主よ、子供が死なないうちに、おいでください」と言った。イエスは言われた。「帰りなさい。あなたの息子は生きる。」
 その人は、イエスの言われた言葉を信じて帰って行った。ところが、下って行く途中、僕たちが迎えに来て、その子が生きていることを告げた。そこで、息子の病気が良くなった時刻を尋ねると、僕たちは、「きのうの午後一時に熱が下がりました」と言った。それは、イエスが「あなたの息子は生きる」と言われたのと同じ時刻であることを、この父親は知った。そして、彼もその家族もこぞって信じた。

 「あなたがたは、しるしや不思議な業を見なければ決して信じない」、息子の癒しを懸命に願う父親に、どんな調子でイエスはこう語ったのでしょう。
 わたしは、この言葉から神の愛の深さを感じます。神は人間がとても弱い存在で、「しるし」を見なければ神の愛を信じることができないことをよく御存じでした。「神は愛だ」という言葉だけではだめで、自分に語りかけられる神の優しい声を聴き、手のぬくもりに触れ、温かな笑顔を見たときにだけ人間は神の愛を信じることができるのです。
 そこで、神はこの世にイエス・キリストという「しるし」を与えてくださいました。十字架を頂点とするイエスの生涯を通して、イエスの優しい声、手のぬくもり、温かな笑顔を通して神はわたしたちに惜しみなく愛を降り注ぎ、神が愛であることを証してくださったのです。それだけでなく、イエスが昇天した後の時代に生きるわたしたちのためには、ミサを頂点とする諸秘跡を神の愛の目に見える「しるし」として制定してくださいました。
 キリスト教は「しるし」の宗教だと言ってもいいくらい、わたしたちの信仰と「しるし」は切っても切れない関係にあります。今日の福音の中でも、イエスは役人の息子をただちに癒すという「しるし」を行われました。「しるし」によって、役人が神の愛を確信できるようになるためです。
 冒頭に引用したイエスの言葉は、人間の不信仰に対する批判というより、むしろ人間の弱さに対する共感を込めた嘆息だったのではないかとわたしは思います。弱いわたしたちに、イエスはたくさんの愛の「しるし」を残してくださいました。この恵みに心から感謝しつつ、このミサをともに捧げてまいりましょう。
※写真の解説…教会の庭に咲いたユキヤナギ