やぎぃの日記(37) 聖週間の始まり


 外では桜が満開だが、教会は昨日から「受難の週」に入った。この一週間を祈りの中で始めようということで、昨日は午後から「ともに祈る会」をした。
 「ともに祈る会」は今回で3回目だ。1回目、2回目は数人しか参加者がおらず、「若者たちの期待に添わない集まりだったのかなぁ」と思い始めていたところだった。今回、参加者が少なかったらやり方を大きく見直そうかとも思っていた。ところが、昨日は10人もの若者が集まってくれた。今の形でしばらく続けろという神様のメッセージかもしれない。
 いつもの通りロザリオを一連唱えるところから始めて、呼吸を使った様々な祈りで心身を神様に向けなおし、それから御言葉の黙想に入った。わたしが黙想のポイントとして話したのは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉に、祈りの中で耳を傾けるということだった。一体イエスはどんな気持ちでこの言葉を発したのか、イエスの苦しみに共感することでこの言葉に込められたイエスの思いを味わったらどうかということだ。
 各自が30分ほど思い思いの場所で祈った後、また集まって分かち合いをした。1時間ほどの分かち合いだったが、とても恵み深いひと時だった。1人ひとりの心の奥底にイエスの霊が宿り、彼らの口を通してイエスが語っているという感じさえした。
 わたしたちはそれぞれに苦しみを抱えながら生きている。その苦しみに押しつぶされることなく、十字架上のイエスに倣って神への深い信頼のうちに神に語りかけることをやめなければ、必ず神はわたしたちを救って下さるだろう。弱くみじめなわたしたちの姿を、神はありのままに受け止め、包みこんで下さる方だからだ。分かち合いが終わった後、そんな思いが心に残った。参加して下さったみなさん、ありがとうございました。
※写真の解説…京都・醍醐寺三宝院の枝垂桜。