バイブル・エッセイ(59) 愛の叫び

このエッセイは、4月4日晩に行われた「枝の主日」のミサでの説教に基づいています。

 エスを十字架につけたのは、午前九時であった。罪状書きには、「ユダヤ人の王」と書いてあった。また、イエスと一緒に二人の強盗を、一人は右にもう一人は左に、十字架につけた。こうして、「その人は犯罪人の一人に数えられた」という聖書の言葉が実現した。
 そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって言った。「おやおや、神殿を打ち倒し、三日で建てる者、十字架から降りて自分を救ってみろ。」同じように、祭司長たちも律法学者たちと一緒になって、代わる代わるイエスを侮辱して言った。「他人は救ったのに、自分は救えない。メシア、イスラエルの王、今すぐ十字架から降りるがいい。それを見たら、信じてやろう。」一緒に十字架につけられた者たちも、イエスをののしった。
 昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた。三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。
 そばに居合わせた人々のうちには、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言う者がいた。ある者が走り寄り、海綿に酸いぶどう酒を含ませて葦の棒に付け、「待て、エリヤが彼を降ろしに来るかどうか、見ていよう」と言いながら、イエスに飲ませようとした。しかし、イエスは大声を出して息を引き取られた。(マルコ15:25-37)

 「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」イエスは、一体どんな気持ちでこの言葉を叫んだのでしょうか。
 わたしは、この言葉にイエスの父なる神への深い信頼と愛を感じます。この言葉は、神への愛の最高の証だと言っていいでしょう。なぜなら、このような極限状態の中にあってさえイエスは神を見失うことなく、神の愛を求め続けているからです。神が自分を見捨てたと思えるような状況の中にあってさえ、イエスは神を見捨てることがなかったのです。十字架上での苦しみが人間の体験しうる最も絶望的な状況だとすれば、その中にあって示された神に対するイエスの愛は、人間が示しうる神への最高の愛だと言っていいでしょう。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか。」この言葉は、極限の苦しみの中で押し出された究極の愛の叫びだったのです。
 わたしたちはイエスに倣うことができるでしょうか。絶望的な状況、なんの慰めも見つけられないような状況の中でも神を愛し続けることができるでしょうか。たとえ裏切られ見捨てられても愛し続けずにはいられないというほどに、神を愛しているでしょうか。
 日々の仕事の中で、家事や子育ての中で、あるいは闘病生活や介護の中で、慰めが感じられず、神から見捨てられたとしか感じられないときがあるかもしれません。そのようなときこそ、十字架上のイエスにならって神に叫びの声を上げましょう。「わたしはもうだめです」、「助けてください」、「見捨てないでください」、どんな言葉でもかまいません。神は、その言葉をわたしたちのありのままの愛情表現として受け止めてくださるはずです。
 エスの叫びは、復活の喜びによって報いられました。わたしたちが神を見捨てない限り、神はわたしたちを必ず救ってくださいます。イエスの十字架に希望の目を注ぎながら、この聖週間を歩んでいきましょう。
※写真の解説…六甲教会の桜。