バイブル・エッセイ(60) 愛への渇き

このエッセイは、4月10日聖金曜日のミサでの説教に基づいています。

 兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。下着も取ってみたが、それには縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった。そこで、「これは裂かないで、だれのものになるか、くじ引きで決めよう」と話し合った。それは、「彼らはわたしの服を分け合い、わたしの衣服のことでくじを引いた」という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちはこのとおりにしたのである。
 イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。
 この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。そこには、酸いぶどう酒を満たした器が置いてあった。人々は、このぶどう酒をいっぱい含ませた海綿をヒソプに付け、イエスの口もとに差し出した。イエスは、このぶどう酒を受けると、「成し遂げられた」と言い、頭を垂れて息を引き取られた。(ヨハネ19:23-30)

 十字架上での厳しい苦しみの最後に、イエスは絞り出すような声で一言「渇く」と言われました。先日「枝の主日」に読まれた福音では、イエスは最後に「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫びましたが、「渇く」という言葉はこの言葉と同じイエスの思いを表す言葉だと思います。
 「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という叫び、それはイエスの愛の叫びだったとわたしは思います。すぺての慰めを取り去られ、神から見捨てられたとさえ感じられるような極限状況に追い込まれても、イエスは神を見捨てることができませんでした。神の愛を求めてなりふり構わず発せられた魂の叫び、それが「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という言葉でした。
 「渇く」という言葉には、それと同じイエスの思いが込められていると思います。「渇き」とは、神の愛を求めるイエスの心の渇きに他ならないのです。愛するユダヤの人々や弟子たちから裏切られ、神からさえも見捨てられたような状況の中で、イエスは愛に渇ききっていたのです。
 「渇く」という言葉は、2000年前に1度だけ発せられた言葉ではありません。わたしたち一人ひとりの心の中で、今もイエスはこの言葉を発し続けています。わたしたちの心の一番深いところ、ありのままのわたしたちが宿るところ、そこにイエスはおられ、わたしたちの愛を待っているのです。もしわたしたちがありのままの自分を拒否し、「こんな自分ではだめだ」とか、「もっと立派にならなければだめだ」と思って地上の富や権力、人からの尊敬などを追い求めているとき、イエスはわたしたちの心の中で渇いています。なぜありのままの自分を認め、愛そうとしないのかとイエスは悲しんでおられます。
 わたしたちの心の奥底に響くイエスの言葉、わたしたちの愛を求めて渇くイエスの言葉に耳を傾けましょう。もしわたしたちが自分をありのままに愛せるならば、イエスの渇きは癒されるのです。もし愛せないならば、わたしたちはイエスを苦しめ続けることになります。もしありのままの自分に宿っておられるイエスを受け止めることができるならば、わたしたちはありのままの隣人たちに宿っているイエスをも受け止められるでしょう。
 わたしたちの心の中で苦しんでおられるイエスの声に静かに耳を傾けながら、これから始まる聖なる土曜日を過ごしたいものです。
※写真の解説…京都・醍醐寺の枝垂桜。