バイブル・エッセイ(61) 復活したイエス

 このエッセイは、4月17日に元町の聖ミカエル教会で行われた"EASTER JOINT SERVICE"での「イースター・メッセージ」に基づいています。

 マリアは墓の外に立って泣いていた。泣きながら身をかがめて墓の中を見ると、イエスの遺体の置いてあった所に、白い衣を着た二人の天使が見えた。一人は頭の方に、もう一人は足の方に座っていた。天使たちが、「婦人よ、なぜ泣いているのか」と言うと、マリアは言った。「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしには分かりません。」こう言いながら後ろを振り向くと、イエスの立っておられるのが見えた。しかし、それがイエスだとは分からなかった。
 イエスは言われた。「婦人よ、なぜ泣いているのか。だれを捜しているのか。」マリアは、園丁だと思って言った。「あなたがあの方を運び去ったのでしたら、どこに置いたのか教えてください。わたしが、あの方を引き取ります。」イエスが、「マリア」と言われると、彼女は振り向いて、ヘブライ語で、「ラボニ」と言った。「先生」という意味である。イエスは言われた。「わたしにすがりつくのはよしなさい。まだ父のもとへ上っていないのだから。わたしの兄弟たちのところへ行って、こう言いなさい。『わたしの父であり、あなたがたの父である方、また、わたしの神であり、あなたがたの神である方のところへわたしは上る』と。」
 マグダラのマリアは弟子たちのところへ行って、「わたしは主を見ました」と告げ、また、主から言われたことを伝えた。(ヨハネ20:11-18)

 弟子たちやマグダラのマリアが復活したイエスと出会ったとき、とても不思議なことが起りました。何年ものあいだ生活を共にした愛する師であるイエスの姿を見、声を聞いているにもかかわらず、彼らは自分たちの話している相手がイエスだと分からないのです。わたしたちは親しい友だちから電話がかかってきたとき、一声聞けば相手が誰かわかるでしょう。なのに、弟子たちは目の前にいて話している相手がイエスだと分からなかった。なぜでしょう。
1.「心の目」、「心の耳」
 わたしは、ここに復活したイエスの大きな神秘が示されていると思います。復活したイエスは、肉の目で見たり、耳で聞いたりするだけでは誰だかわからない方なのです。パウロは復活後に与えられる体を「霊の体」と呼びましたが、「霊の体」に生まれ変わったイエスの姿を見たり、声を聞いたりするためには肉の目や耳だけでは不十分なのです。「霊の体」を見、そこから発せられた声を聞くには、わたしたちの「霊の目」、「霊の耳」を使わなければなりません。「心の目」を開き、「心の耳」を傾けない限り、わたしたちは復活したイエスと出会うことができないのです。
2.なぜ復活したイエスと出会えないのか
 では、なぜ弟子たちやマグダラのマリアは「心の目」や「心の耳」を使ってイエスと出会うことができなかったのでしょう。それは、彼らが目の前にいる相手に心を向けていなかった、今この瞬間に起こっている出会いを大切にしていかなったからだと思います。
 弟子たちはイエスと出会ったとき、これから自分たちがどうなるのだろうということを心配して、未来のことばかりを考えていました。マグダラのマリアは、すでに起こってしまってもうどうしょうもない出来事、イエスの死を悲しみ、過去のことばかり考えていました。そんなとき、わたしたちの「心の目」や「心の耳」は閉じてしまいます。過去や未来のことばかり考えて、今この瞬間に全力で向かい合っていないからです。過去のことや将来のことばかり考えているとき、結局のところわたしたちは自分のことしか考えていません。それでは、目の前にいるイエスと出会うことができないのです。
3.今、この瞬間を大切に
 復活したイエスと出会うために、わたしたちは今この瞬間に全力で向かい合わなければなりません。もし目の前で起こっている出来事に自分のすべてを差し出すならば、今起こっている一つ一つの出来事を心から大切にし、それらと丁寧に向かい合っていくならば、わたしたちの「心の目」、「心の耳」が開かれます。そして、それらの出来事を通して復活したイエスと出会うことができるのです。
 今わたしたちが共に歌っている歌の響きの中に、確かにイエスがおられます。歌詞の一つ一つの言葉の中に、確かにイエスがおられます。沈黙の中で聞こえくる隣の人のかすかな息遣いの中に、確かにイエスがおられます。前に座っている友の背中に、祭壇で燃えているキャンドルの炎の中に、確かにイエスがおられます。「心の目」、「心の耳」を開き、そのことを感じたいものです。
※写真の解説…コバノミツバツツジ。森林植物園にて。