マザー・テレサに学ぶキリスト教(1) マザー・テレサとの出会い

第1回「マザー・テレサとの出会い」
《はじめに》
 キリスト教を学ぶというときに、いろいろな切り口からの学び方があると思います。教義を勉強したり、聖書を読んだりするだけでなく、イエスの愛を実践することも、祈ることも、先人たちの信仰に触れることも、すべてがキリスト教の学びだと言えるでしょう。
 今回の「キリスト教入門講座」では、マザー・テレサという一人の人物の信仰を通してキリスト教を学んでみたいと思います。20世紀の世界にキリストの光を燦然と輝かせたマザー・テレサ、彼女の信じたキリスト教とは一体どのようなものだったのでしょうか。マザー・テレサにとって、イエスとは誰だったのでしょうか。教会とは、ミサとは何だったのでしょうか。これからゆっくりと一緒に考えて行きましょう。マザー・テレサと出会うことで、わたしたちは必ずイエス・キリストと出会うことができるでしょう。
 最初の8回は、マザー・テレサがどんな人だったのかについてお話ししたいと思います。そのあと、マザー・テレサにとってイエスとは誰だったのか、教会とは、ミサとはなんだったのか、一つ一つのテーマについてお話ししていきたいと思います。

マザー・テレサとの出会い》
 第1回目である今回は、自己紹介も兼ねてわたし自身のマザー・テレサとの出会いについてお話ししたいと思います。まず、そもそもどうしてわたしがマザーと出会うことになったのかについてお話しし、次に実際に出会ってみてどんな人だったのかについてお話しします。

1.マザー・テレサとの出会い
 マザー・テレサと最初に出会ったのは、1994年5月のことでした。その出会いがきっかけとなって、わたしは1994年から1995年にかけておよそ1年間カルカッタに滞在し、マザー・テレサの施設「死を待つ人の家」でボランティアとして働くことになりました。埼玉県の片田舎で仏教徒の家に生まれたわたしが一体なぜカルカッタに行き、マザー・テレサと出会うことになったのか、まずそのことからお話ししたいと思います。
(1)マザー・テレサを知る
 わたしがマザー・テレサを知ったのは、1980年頃のことです。その頃わたしはまだ10歳くらいでしたが、テレビの番組で発展途上国の貧しい人たちのために働くマザー・テレサのことを知り、とても感動したのを覚えています。今でもやっている「24時間テレビ」という番組でした。
この番組はテレビを通して恵まれない人たちのために寄付金を集めるというものですが、わたしはこの毎年この番組を楽しみに見ていました。この番組のために1年間ためた小銭を持って、おばあちゃんと一緒に近くのデパートに設けられた寄付金受付所にもっていくのが楽しみだったのです。帰りに食堂でおいしい「お子様ランチ」を食べるのがうれしかったのかもしれません。
 わたしは埼玉県の上尾市というところで生まれ育ちました。最近、急速にベッドタウンとして開発が進んでいる地域ですが、わたしが子どもの頃はまだまだ田舎で昔からの文化や風俗が生きていたように思います。地域の交わりの核にお寺と神社があり、それに部落の会合などが混じって共同体を作り上げていました。わたしの両親は典型的な田舎のお百姓だったので、家には仏壇と神棚が両方ありました。父は先祖代々百姓の家の長男として生まれ、農業高校を出たあと園芸農家を始めた人で、母も同じ町の農家から父のもとに嫁いできた根っからのお百姓さんでした。
 そんな中で育ちましたので、キリスト教と出会う機会はまったくありませんでした。わたしは神社の幼稚園に入れられ、そのあと高校まで近くの公立学校に行きましたから、キリスト教教育を受けたこともありません。そんなわたしが、10歳のときにマザー・テレサを知ることができたというのは、本当に珍しい偶然だったと思います。当時はまだ、マザー・テレサキリスト教の修道女だということさえ知らなかったと思います。
(2)洗礼を受ける
 そのあと、マザー・テレサのことはすっかり忘れていました。小学生時代はほとんど魚釣りのことしか考えずに過ごしましたし、中学校に入ってからは部活の剣道や勉強が忙しくなりました。マザー・テレサのことを思い出したのは、22歳のときキリスト教の洗礼を受けてからでした。
 洗礼を受けるきっかけになったのは、21歳のときに直面した父親の突然の死でした。そのころわたしは東京に下宿して大学に通っていましたが、ある日突然母から電話がかかってきて「お父さんが死んだから、すぐに帰ってきなさい」というのです。びっくり仰天して家に駆けつけたとき、父はもうすっかり冷たくなって奥の座敷に安置されていました。死因は、心筋梗塞だったということです。お昼ごはんを食べて花たちが待っている温室に向かう途中で倒れ、そのままこと切れたということでした。
 一家の大黒柱が急にいなくなるというのは大変なことで、そのあと家の中は大変なことになりました。まず大学に行くにしても何をするにしても、安定した収入がなければどうしようもありませんから、どうやってこれから食べていくのかということを考えなければなりませんでした。それに、相続税という税金を払うために土地を売ったりいろいろ面倒な手続をしたりしなければなりませんでしたから、もう勉強どころのさわぎではなくなってしまいました。
 そんなとき、たまたま本屋さんでキリスト教の本を見つけて読み始めました。とても考えさせられる内容の本だったので、巻末に載っていたその本を書いた神父さんの連絡先に電話をし、神父さんのやっているキリスト教入門講座に参加することにしました。
 当時、将来への不安と孤独の中にあったわたしは、その入門講座の温かい雰囲気にとても惹かれました。大学でやっている講座だったので若い人たちも多く、すぐにたくさんの友だちもできました。そんな中で、この人たちと一緒にキリスト教を信じてやっていくのも悪くないかなというくらいの気持ちで洗礼を受けたのが、1993年11月のことでした。
(3)カルカッタ
 しかし、洗礼は受けたもののわたしの中にはどうも物足りない気持ちが残っていました。洗礼を受けても、あまり大きな喜びがなかったのです。キリスト教の仲間に入れてもらったという喜びはありましたが、洗礼によって与えられるといわれていた、心の内側から湧きあがってくる喜びとか力というようものが実感できなかったのです。洗礼を受け、生まれて初めて御聖体をもらって泣いている人もいましたが、そのような姿を見るにつけてもわたしはキリスト教徒として何かが欠けているのではないかと思わざるをえませんでした。
 そのときわたしなりに考えたのは、これはわたしのキリスト教理解が頭だけによるもので実践を伴わないからではないかということでした。これからは、祈りやキリストの愛を実践していかなければならいない、そう思い始めたときわたしの心に昔テレビで見たお婆さんの姿がよみがえってきました。「キリスト教の実践と言えば…、そうだマザー・テレサだ。」そう思ったわたしは、本屋さんでマザー・テレサについて書かれた本を何冊か買ってきて読み始めました。
 読んでいるうちに、わたしもまずできることから始めなければという気持ちになって来ましたし、ある本の最後に東京にあるマザー・テレサ修道院の連絡先が出ていましたので、とりあえず電話してみることにしました。もしできることがあれば、行って手伝おうと思ったのです。その電話のおわりに、わたしは一つ気になっていたことをシスターに聞きました。
「本を何冊か読んだのですが、どの本にもマザー・テレサの亡くなった年が書いてありません。何年頃まで生きていたのですか?」
わたしがそう尋ねると、シスターは笑って「マザーは、まだカルカッタで元気に生きていますよ」と答えました。その答えを聞いた瞬間、わたしの中にはっきり一つの考えがひらめきました。「そうか、それならば本人に会いに行こう。」そう思ったわたしは、そのときからカルカッタに行くことを考え始めました。
こうして、その電話から約1ヶ月後の1994年5月、わたしは成田空港からカルカッタに向けて飛び立ったのでした。
(4)最初の出会い
 カルカッタ空港に着くと、わたしはタクシーでまっすぐにマザー・テレサの家であるマザー・ハウスを目指しました。マザー・ハウスというのは、マザー・テレサが始めた「神の愛の宣教者会」という修道会の本部修道院のことです。4階建てのその大きな建物に着くと、わたしはどきどきしながらドアのベルを鳴らしました。出てきたシスターは、リュックサックを背負って突然現れたわたしを見ても別に驚くことなく、すぐに中に入れてくれました。
マザー・テレサに会いたいのですが」とわたしが言うと、その若いシスターはわたしを2階の事務室の前に案内し、「しばらくここで待っていてください」と言って中に入っていきました。たぶん手続きをして会う日時を決めるのだろうなと思いながらそこで待っていると、数分して事務室の中から別の歳をとった小柄なシスターが出てきました。そのシスターが、なんとマザー・テレサ本人だったのです。
マザーは、わたしにどこから来たのかと尋ねました。わたしが日本から来ましたと答えると、マザーはうれしそうに、「行ったことがあります。すばらしい国ですね」と言いました。そこまではよかったのですが、すぐにわたしは困ったことに気づきました。なにしろ「マザー・テレサに会いたい」という一心だけでカルカッタに行ったので、マザー・テレサと会って何を話そうかということは全く考えていなかったのです。仕方なく、そのときは握手をしたり、サインをもらったり、一緒に写真を撮ったりしただけで面会が終わってしまいました。
それでも、わたしはうれしくてうれしくて仕方がありませんでした。幼い頃にテレビで見た、あのマザー・テレサに会うことができた、実際に手で触り言葉を交わした、それだけでもううれしくて仕方がなくなってしまったのです。帰り道を歩きながら、もうスキップでもしたいような気持でした。
(5)それからのこと
 そのときは、2週間ほど滞在しただけで日本に帰りました。ですが、日本に戻っても何をするということもなかったし、マザー・テレサに会えたときの喜びがあまりにも大きかったので、わたしはまたすぐにカルカッタに戻りたくなってしまいました。
将来のことは不安でしたが、「マザーのそばにいれば、なんとかなるかもしれない」漠然とそう思ったわたしは、準備をして1994年11月再びカルカッタに出かけました。それから断続的にですが1年ほどカルカッタに滞在し「死を待つ人の家」でボランティアとして働いていたというわけです。
そのあいだに、マザーからの勧めもあってわたしは神父になることを考え始めました。ですが、なんとか体験だけでもしてみようと思ってマザー・テレサの司祭会の修道院に住み始めた直後に結核を発病してしまい、日本に帰らざるをえなくなりました。帰国後イエズス会に拾ってもらい、10年あまりの養成期間を経て昨年なんとか神父になることができました。
※この辺りの詳しい事情については、拙著『カルカッタ日記』(ドン・ボスコ社刊)に詳しく書きましたので、興味をもたれた方はぜひお読みください。

2.どんな人だったのか
 「近くで見ていてマザー・テレサはどんな人でしたか」とよく聞かれます。マザー・テレサの人柄を、ここではいくつかのキーワードを使って説明してみたいと思います。

(1)毅然とした人
 マザー・テレサというと優しいお婆さんというイメージがあるかもしれませんが、いつもニコニコ笑っているような人ではなく、普段はとても毅然とした方でした。彫りの深い顔立ちでしたから、少し怖く見えたくらいです。マザーは1910年に生れ、いくつもの戦争の中を生き抜いてこられた方ですが、そのせいか多少のことでは動じないというようなしっかりしたところを持った方でした。日本で言えば、芯の通った明治女というイメージでしょうか。その不動の心が神への信頼に由来するものであったことを思えば、彼女の普段の様子には「超然」という言葉の方がもっとよく当てはまるかもしれません。
 マザーはときどき激しく怒ることもありました。それは、誰かがイエスをないがしろにするような言動をとったときです。ある初誓願式のあとのことでしたが、誓願を立てたばかりのシスターたちの何人かが、聖堂で楽しそうに話しながら家族と記念撮影をしていました。それはほほえましい光景だったのですが、シスターたちは喜びのあまり少しはしゃぎ過ぎていたようです。御聖体の前でおしゃべりしている彼女たちを見たマザーは、怒って「イエスがそこにいるんですよ」と言いながら彼女たちの手を引っぱってみな聖堂の外に出してしまいました。
(2)温もりを感じさせる人
 そんな一面を持ってはいましたが、マザーと話して冷たい人だなという印象を受けた人は誰もいないと思います。なぜなら、マザーはやって来るどんな人でも満面の笑顔で迎えたからです。マザーのあのとびきりの笑顔に迎えられて、心を動かされなかった人はいないでしょう。マザーはよく「わたしにとっては、そのとき目の前にいる人だけが全てです」と言っていましたが、実際マザーにあの笑顔で迎えられた人は、誰もが「自分こそマザーに一番愛されている」と感じたと思います。マザーは、出会う相手にいつでも自分の全てを差し出す人だったのです。あの笑顔で語りかけられた数えきれないほどの人がマザーに魅了され、マザーの活動に参加していったのは無理もないことだと思います。
 握手する時に差し出される大きな手のぬくもりも印象的でした。マザーはアルバニア人でしたが、おそらくアルバニア人の民族的な特徴なのでしょう、とても大きな手をしていました。マザーはいつも、大きな手のひらでで相手の手を包み込むようにして握手していました。ときには、そのまま握った手を放さないこともあり、手を握ったまま相手に身体をぐっと近づけて話すこともありました。そのような接近に慣れていない日本人のわたしはどきどきしたものですが、マザーにとってはごく普通の愛情表現だったのでしょう。普段見せている毅然とした態度と、個人的に話すときに見せてくれる愛情にあふれた態度のコントラストがとても印象的な人でした。
(3)無駄遣いを嫌う人
 これも物があまりない時代に育った人たちに共通の特徴かもしれませんが、マザーはちょっとしたことでも無駄遣いをするのが大嫌いな人でした。
中でも特に印象的だったのは、電気の管理です。写真などでマザーが聖堂の隅の目立たない壁際で静かに祈っている場面をご覧になったことがあるかもしれませんが、マザーがあの場所に座っていたのにはとても実用的なもう一つの理由がありました。あの場所の壁には、聖堂の電気のスイッチがあったのです。マザーは、ミサが始まる直前まで聖堂を薄暗くしておき、ミサが始まると立ち上がって全ての電気をつけました。そして、ミサが終わると直ちに元の明るさに戻していました。わずかな電気でも無駄にしたくなかったのでしょう。
これはシスターたちから聞いた話ですが、マザーの節約は徹底していて、毎晩寝る前に必ず修道院中の消し忘れの電気を自分で消して歩いていたそうです。あるときには、自分で電気を消しておいて階段で躓いてしまい、骨折したこともあったそうです。ある時期までマザーは、世界中からかかってくるほんどの電話に自分で直接出ていたそうですが、これもどうせみな自分に用事があってかけてくるのだから、直接出た方が電話代を無駄にしなくていいという理由からだったそうです。
(4)自分に厳しい人
 マザーは自分に対してとても厳しい人でした。ノーベル平和賞をもらい世界的に有名になったあとも、貧しい一修道女としての生活をあくまでも崩すことなく、質素で厳しい生活を守り続けたのです。
 あるとき、わたしたちはマザーが40度の熱を出していると聞き、ミサが始まる前にマザーの回復のためにお祈りしていました。昔かかったマラリアの影響で、マザーは晩年もときどき高熱を出すことがあったのです。ところが驚いたことにミサの時間の直前、マザーはシスターたちの制止を振り切り、壁を伝いながら聖堂まで歩いてきました。「マザーが何かを言いだすとわたしでも止められない」とヨハネ・パウロ2世が嘆いたことがあるそうですが、マザーにはそういうところがあったのです。
 心配したシスターの一人があわててマザーの座る場所に座布団を置きました。マザーが座る場所には、いつも他のシスターが座る場所と同じジュートの薄いカーペットしか敷いてありましたが、それはコンクリートの床の冷たさをさえぎることができるようなものではありませんでした。よろよろと聖堂にたどり着いたマザーは、その座布団を見つけると近くにいたシスターに「すぐにどけなさい」と言いました。病気とはいえ、自分だけ特別扱いされるのがいやだったのだと思います。
 もっともこの話には後日談があります。マザーの熱は翌日も下がらなかったのですが、またしてもよろよろと聖堂まで歩いてきました。前日の失敗に懲りたシスターたちは、今度はマザーに分かりにくいように、ジュートのカーペットの下に座布団を敷きました。それを見たマザーは、一瞬「おやっ」という顔をしましたが、そのままその座布団の上に腰を下ろしました。そこまでしてマザーの健康を思うシスターたちの心を、受け入れざるをえなかったのだと思います。
 マザーが使っていた部屋にも、マザーの自分に対する厳しさがはっきりと現れています。マザーが使っていた部屋は、ちょうど調理場の上にありました。しかも、隣の部屋は共用トイレでした。暑さとにおいで他のシスターたちが使いたがらない部屋をマザーはあえて自分の部屋として使っていたのです。ちなみに、マザーは隣にある共用トイレの掃除をいつも自分でしていたそうです。
(5)ユーモアにあふれた人
 マザーは、とてもユーモアのセンスがある人でした。マザーが話しているときには、いつでもその周りに笑いの輪が広がっていきました。
 わたしが結核にかかって日本に帰国するときのことですが、マザーもその日たまたま同じ時間帯の飛行機でローマに向かうということで、空港まで一緒に送ってもらうことができました。空港でも、シスターたちが気を利かせて待合室でわたしをマザーの隣に座らせてくれたので、わたしは思いがけず長い時間マザーと話すことができました。そのとき、マザーはわたしに「まず日本に帰って病気を治しなさい。それから神父になることについて家族とよく相談しなさい」と言いました。わたしは少し困って、マザーに「うちの親は仏教徒なので、神父になることを理解してもらうのは難しいと思います」と答えました。するとマザーは、少しも動ぜずすぐにこう言いました。「だいじょうぶ、あなたの親御さんに、マザー・テレサから言われたと言いなさい。」
その言葉を聞いて、周りにいたシスターたちは大笑いしていました。言ってからそれだけでは済まないと思ったのでしょうか、マザーはいつも外出のときに下げている合切袋の中からイエスの聖心の像を一つ取り出して「これをあなたの家族にあげなさい」と言いました。そのときもらった像は、今でも埼玉の実家のテレビの上に飾ってあります。
(6)直観に導かれた人
 マザー・テレサは、直感で行動するタイプの人でした。次から次に閃きで行動するマザーを、周りのシスターたちがひやひやしながら支えるということが多かったようです。ただ、マザーの秘書として働いていたあるシスターは「でも、いつも結果としてはマザーのひらめきが正しかったことが分かるんですよ」とも言っていました。
 わたしの人生も、このマザーの直観によって大きく変えられてしまいました。わたしがカルカッタでボランティアとして働き始めて数か月が過ぎたある日のことです。廊下であるシスターと立ち話していたとき、マザーがたまたま通りかかりました。そのとき、何を思ったのか知りませんがマザーはわたしの目の前で立ち止まり、突然「あなたは司祭にならなければいけません」(You must become a priest.)と話し始めたのです。「いつまでも迷わず、今すぐ決心しなさい。あなたはイエスと結婚するのです」などと言いながら、マザーは近くにいたシスターに司祭たちの連絡先を持ってこさせ、彼らの電話番号を紙に書いてわたしに渡しました。
 その出来事のあと、わたしは司祭になる可能性を考えるようになりました。マザーがあのとき、なぜ突然あんなことを言い始めたのか分かりませんが、マザーがあんなことを言わなければわたしが今こうして神父になっているということはまず絶対になかったと思います。
 結核のときも、マザーの直感で助けられました。わたしが結核だとわかったとき、お医者さんのシスターは「結核は薬を飲んでいれば治るので、カルカッタでも治すことができます。わたしたちが治療してあげるから安心しなさい」と言いました。わたしも、結核はもうそれほど怖くない病気というイメージがあったので、その言葉に従ってしばらくカルカッタで治療を受けてみることにしました。実際、シスターたちはわたしを病院に連れて行ってくれたり、毎日注射を打ってくれたりしてとてもよくしてくれたのですが、2週間たっても、3週間たってもあまり症状の改善がありませんでした。マザーも心配してくれていましたが、シスターたちが治療しているのを知って様子を見ていたようでした。
 結核だとわかって1ヵ月くらいしたときのことです。マザーが、聖堂からふらふらと出てきたわたしに近づいてきて話しかけました。「すぐに日本に帰りなさい。あなたの病気は日本で直した方がいいに決まっています。」そう言うと、マザーはそばにいたシスターに「この子をすぐにエアインディアのオフィスに連れていきなさい」と指示しました。わたしは、言われるままにシスターと一緒に航空会社のオフィスに行き、日本へ帰る便の予約をしました。
 日本に帰ると、わたしはすぐに大学病院に入院することになりました。そこで調べて分かったのは、わたしが感染した結核菌はインドで処方されていた結核の3種類の薬のうち2種類がまったく効かない特別な菌だということでした。もしあのままインドで治療を続けていれば、きっと大変なことになっていたでしょう。マザーの直感のおかげで命拾いしたと思います。

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 マザーの思い出を書き始めるときりがないのですが、また折に触れて紹介することにして、今日のところはこのくらいで終えたいと思います。次回は、マザーの生涯を年譜で振り返ってみることにします。