バイブル・エッセイ(64) 怒りと悲しみ

 このエッセイは、4月26日に行われた「子どものためのミサ」での説教に基づいています。
 二人も、道で起こったことや、パンを裂いてくださったときにイエスだと分かった次第を話した。こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。そこで、イエスは言われた。
 「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」こう言って、イエスは手と足をお見せになった。彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。
 イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる。(ルカ24:35-48)

 弟子たちが集まってイエスのことを話していると、彼らの真ん中に突然イエスが現れました。時刻は真夜中ごろのことです。弟子たちが驚いたのも無理はありません。自分たちが見殺しにして逃げてきたイエスが、亡霊になって自分たちに復讐しに来たのだと思った弟子もいたでしょう。ところがイエスは復讐するどころか、まるで何事もなかったかのように彼らに「あなたがたに平和があるように」と語りかけました。イエスは弟子たちの裏切りを快く赦し、彼らを再び受け入れたのです。弟子たちの喜びは、一体どれほど大きかったことでしょう。
 友だちから裏切られたとき、せっかく遊ぶ約束していたのに友だちが他の友だちと遊びに行ってしまったようなとき、わたしたちの心には2通りの反応が起こると思います。その一つは怒りです。友だちから裏切られたとき、「どうしてぼくを裏切ったんだ。絶対にゆるせない。復讐してやる」というような思いに駆られて、相手の悪口を言ったり、もう口もきかなくなったり、そんな態度をとってしまうことがあります。こんな反応が生まれるとき、わたちは本当に友だちを大切に思い、愛していたと言えるでしょうか。大切な友だちと言いながら、本当に大切なのは自分で、自分の都合のいいように相手を利用したかっただけなのではないかという疑いが残ります。
 もう一つの反応は悲しみです。大切な友だちから裏切られたとき、「どうして自分を選んでもらえなかったんだろう」という深い悲しみが生まれることがあります。ですが、友だちが自分にとって大切な人だという思いは変わらないので、相手の幸せそうな姿を見ればその悲しみも乗り越えていくことができます。こんな反応が生まれたとき、わたしたちは相手を本当に大切な友だちとして愛していたと言えるでしょう。大切なのは自分ではなく相手なので、相手が幸せになってくれるのなら自分の寂しさは別にどうでもいいのです。
 弟子たちから裏切られたイエスがとった反応は、間違いなくこの2つ目の反応だったと思います。イエスは弟子たちを大切な友だと思い、心から愛していたので、裏切られても決して怒ったり、復讐心に駆られたりすることはありませんでした。それどころか、弟子たちを快くゆるし、彼らの心に「平和」があるようにと願ったのです。
 自分が相手を本当に愛していたのかどうか、それとも単に相手を利用したかっただけなのかは、裏切られたときに分かります。イエスの愛に倣って、どんなときでも相手のことを大切に思い、裏切られたとしても快くゆるすことができるようになっていきたいものです。
※写真の解説…新緑に彩られた神戸の街。灘丸山公園にて。