バイブル・エッセイ(67) イエスの模範


 エスは言われた。「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を洗ったのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない。わたしがあなたがたにしたとおりに、あなたがたもするようにと、模範を示したのである。はっきり言っておく。僕は主人にまさらず、遣わされた者は遣わした者にまさりはしない。このことが分かり、そのとおりに実行するなら、幸いである。
 わたしは、あなたがた皆について、こう言っているのではない。わたしは、どのような人々を選び出したか分かっている。しかし、『わたしのパンを食べている者が、わたしに逆らった』という聖書の言葉は実現しなければならない。事の起こる前に、今、言っておく。事が起こったとき、『わたしはある』ということを、あなたがたが信じるようになるためである。
 はっきり言っておく。わたしの遣わす者を受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」(ヨハネ13:14-20)

 イエスから遣わされたわたしたちは、決してイエスに勝るものではありません。これは当然のことです。ですが、日々の生活の中でわたしたちの心の中に自分をイエス以上のものにしようとする誘惑が湧き上がってくることがたびたびあります。
 ここのところ、わたしはとても慌ただしい日々を過ごしています。新しく赴任して来られるはずの神父様が健康を害され、赴任が遅れているため、わたしが主任司祭代行として1人で教会の日々の仕事を引き受けざるをえなくなったからです。どういうわけか、この時期を選んだかのように毎日さまざまな難しい相談や頼みごとが寄せられ、葬儀ミサなども続いてゆっくりしている時間がほとんどありません。
 そんな日々の中でときどき、「もっとゆったりと働きたいな」とか「これ以上仕事が来なければいいな」という思いが湧き上がってきます。ですが、イエスがどのように働いたかを思えば、このような思いはイエスの弟子としてふさわしくない思いでしょう。イエスは、救いを求めて押し寄せてくる群衆に囲まれながら、休む間もない奉仕の日々を送られたからです。わたしは夜やわらかいベッドで休むことができますが、イエスは洞穴のようなところで野宿する旅を続けながら働き続けたのです。
 エスから遣わされた弟子であるわたしたちが、イエスよりも楽な暮らしを求めてよいはずがありません。そのことが分かり、イエスの模範にならって人々に自分を捧げつくすときにこそ、わたしたちは本当の意味で「幸い」なのです。この「幸い」を神に感謝しながら、日々の奉仕に励みたいものだと思います。
※写真の解説…摩耶山天上寺跡にて。