バイブル・エッセイ(68) 道はある


「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」
トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ14:1-6)

 「わたしの前に道はない。わたしの後に道はできる。」高村光太郎の有名な詩、「道程」はこの言葉から始まります。自分の道は自分で切り開くのだという雄々しい決意を表現したもので、多くの日本人に愛されている言葉だと思います。
 この言葉自体は美しく、気高い心情を現わしていると思うのですが、残念ながらわたしたち人間の力には限界があり、もう自分で道を切り開くことができないような状況に追い込まれたり、完全に道に迷ってどちらに進んでいったらいいのか分からなくなってしまうことがたびたびあります。この詩を書いた高村光太郎自身、戦時中に文化人として全面的に戦争に協力してしまったことを深く悔い、戦後は花巻郊外の陋屋で償いの日々を過ごして人生を終わりました。
 幸いなことに、わたしたちキリスト信者は自分で自分の道を切り開く必要がありません。イエスご自身が、わたしたちの歩むべき道であり、真理であり、命だからです。わたしたちの前には、イエス・キリストという道が一筋、まっすぐに神の国に向かって続いているのです。この道を迷わず歩いていくか、それとも地上の思いに引きずられて道を踏み外すか、それはわたしたちの気持ち次第です。この道を歩み続ける限り、わたしたちは真理と一致し、生命の力に満ちて生きていくことができるでしょう。ですが、この道を踏み外すなら、わたしたちは真理を見失い、生きる力さえ失ってしまうのです。
 地上の思いに引きずられることなく、この道をどこまでも歩み続けていきましょう。わたしたちの前に、道はあるのです。
※写真の解説…シュラインロードにて。