バイブル・エッセイ(69) ブドウの枝

 このエッセイは、5月10日に行われた「子どもとともに捧げるミサ」での説教に基づいています。
「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。
わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。」(ヨハネ15:1-6)

 昔、あるところにたくさんの枝を伸ばした大きなブドウの木がありました。その枝の中の1本は、日当たりのよいところでどんどん伸びていき、幾つもの実をつけました。小鳥や動物たちはその枝がたくさん実をつけるのを見て、「枝さん、あなたはすごいですね。こんなに立派な実をつけられるのですから」と口々に言いました。みんなから誉められているうちに、その枝は何か自分が特別なものだ、偉いんだと思うようになり、あまり実をつけられない枝を馬鹿にするようになっていきました。
 その様子を見て悲しんだブドウの木は、あるときその枝に「みんなと仲良くしなさい」と叱りました。すると、その枝は怒って木から離れ、出て行ってしまいました。木から離れた枝がどうなったか、みなさんは分かりますね。そう、もうブドウの実をつけることもできず、どんどん枯れ始めてしまったのです。その様子を見て、周りの小鳥や動物たちは「なんだ、役立たずの枯れ枝だ」と言いました。
 そのとき枝は、自分が大きな間違いをしたことに気づきました。偉いのは自分ではなく、実はブドウの木だったのです。枝はブドウの木のところに戻って謝り、それからは他の枝を馬鹿にしたりせずにすくすくと育っていきました。
 みなさんは、この枝のようになっていることがありませんか。学校で褒められたり、いい成績をとったりしているうちに、まるで自分が偉いように思って他の人を馬鹿にしたりすることがないでしょうか。みんながたくさんの実をつけることができるのは、みなさんのお父さんやお母さんを通してイエス様がたくさんの愛をみんなに注いでくれているからなのだということを忘れてしまうことがありませんか。
 枝にすぎないわたしたちは、思いあがってブドウの木であるイエス様から離れてしまうことがないようにしたいものです。そうすれば、みなさんはきっとこれからもたくさんの実をつけながら、すくすくと育っていくことができるでしょう。
※写真の解説…太陽の光を浴びた若葉。シュラインロードにて。