マザー・テレサに学ぶキリスト教(3) マザー・テレサの生涯②前半

 今回は、マザー・テレサがスラム街に出てから帰天するまでを振り返ります。1回の講義ですが、長くなりますのでブログでは前半と後半に分けて掲載したいと思います。
第3回 マザー・テレサの生涯②前半
3.スラム街に出てからノーベル平和賞受賞まで
(1)年譜
1948年 8月17日、5ルピーをだけもって、院外居住生活に入る。パトナの聖家族病院で、基礎的な医療技術を身につける。
⇒マザーは、短期間に驚くほどの知識と技術を身につけたと言われています。最後は、手術の助手を務めるまでになりました。このとき、マザーは病院長のマザー・デンゲルに新しく始める修道会の食事を豆や塩、米だけにしたいと語りましたが、マザー・デンゲルはそれに強く反対しました。マザーも納得して、むしろシスターたちに栄養の豊かな食事を与える決心をしました。
1948年 12月21日、「神の愛の宣教者」として初めてスラム街に入る。
⇒スラムに入ろうと思ったマザーでしたが、なんとスラム街がどこにあるのか分かりませんでした。そこでマザーは、ロレットの学校でチャプレンをしていたイエズス会員、ジュリアン・ヘンリー神父に「モティジルというスラムはどこにあるのですか」と聞きに行きました。ヘンリー神父は、マザーをモティジルに連れていくよう近くにいた女性に頼みました。モティジルは、マザーが働いていた学校から壁をはさんですぐ隣にあるスラムでした。
1949年 2月、ゴメス家の3階に間借りする。/3月19日、シスター・アグネス、マザーの活動に参加。/12月、インド国籍取得。/このころ(1949年から1950年頃)から、その後50年に渡って続くマザーの霊的苦しみが始まる。
⇒マザーの教え子だったスバシニ・ダスが、最初の仲間としてマザーのもとに駆けつけると、次々に教え子たちがマザーのもとに集まってきました。この様子を見て、ロレット修道会からマザーに対して激しい非難の声が上がりました。ロレット修道会に入会する学生がいなくなってしまうというのです。
1950年 10月7日、「神の愛の宣教者会」ローマ教皇庁によって承認される。
カルカッタ大司教の指導のもとで、「神の愛の宣教者会」が正式に発足しました。
1952年 6月、「死を待つ人の家」開設。
⇒道端で死にかけている男性を病院に連れていったのに、病院から受け入れを断られた体験などをきっかけに、マザーは貧しい人たちが神様の愛を感じながら死んでいける場所を作りたいと思うようになりました。そこでカルカッタ市当局にかけあったところ、カルカッタ最大のヒンドゥー教の聖地カーリー寺院の巡礼者用宿泊施設を借り受けることができました。それが、今の「死を待つ人の家」です。
1953年 2月、現在のマザー・ハウスに移動。
⇒ゴメス家が手狭になったため、マザーは大司教にお金を出してもらってイスラム商人の大きな家を購入しました。それが、今のマザー・ハウスです。そのとき、シスターの数はマザーを入れて28人だったそうです。マザー・ハウスは4階建てで、200人以上のシスターが住める広さの家ですから、そんなに大きな家を買うというのは大きな賭けだったとも言えます。もちろん、マザーはその大きな家でさえすぐに一杯になると確信していたのでしょう。
1953年 3月、霊的苦しみをペリエール大司教に告白。
⇒マザーはこのとき、数年来心のうちに隠していた霊的な苦しみを初めて他人に打ち明けました。1949年頃から、彼女の心を霊的な闇が覆い始めたというのです。
1953年 4月、マザー、「神の愛の宣教者会」修道女としての最終誓願宣立。最初のシスターたち、初誓願宣立。/アン・ブレーキーを中心に、「マザー・テレサ共労者会」発足。/マザーの活動、世間から注目されるようになる。
⇒「マザー・テレサ共労者会」はやがて全世界に広がり、「神の愛の宣教者会」の活動を陰から支えていくことになりました。
1955年 「子どもたちの家(シシュ・ヴァバン)」開設。
⇒当時、カルカッタではすでに「マリアの宣教者フランシスコ会」が身寄りのない子どもたちのための施設を運営していました。マザーは、自分たちも自分たちのやり方で子どもたちを助ける決心をしました。やがて、「子どもたちの家」は妊娠中絶に対して、養子縁組によって戦うというマザーの戦術(adoption against abortion)のために重要な拠点になりました。
1956年 4月、マザー、ピカシー神父に霊的苦しみを告白。
⇒黙想を指導に来たイエズス会のピカシー神父にも、マザーは霊的苦しみを告白しました。この後、ピカシー神父がカルカッタ大司教枢機卿になるまで、マザーとピカシー神父の文通は続いてきました。
1957年 11年ぶりに母から手紙が届く。
マケドニアが共産圏に入ったことから、1946年以来マザーは母ドラナフィルと連絡を取ることができませんでした。ドラナフィルは、1948年にマザーが修道会を出たと聞いたあと何の知らせもなかったので、マザーが死んだものと思っていたようです。
1957年 ハンセン氏病の患者がマザーのもとを訪れる。
1958年 チタガールにハンセン氏病患者のための施設「ガンジー・プレム・ニバス」開設。
⇒マザーの活動の範囲は、ハンセン氏病の患者たちにも広がっていきました。マザーは、彼らのためにカルカッタ近郊のチタガールに土地を購入し、彼らの治療と自立支援のためのセンターを作ることになります。
1959年 4月12日、最初のシスターたちが最終誓願宣立。/カルカッタ外で最初の修道院をドゥランチとデリーに設立。
1960年 7月、ロス・アンジェルスで講演。初の海外講演。/ローマで、兄ラザールと約30年ぶりの再会。
1961年 4月、マザー、ノイナー神父に霊的苦しみを告白。ノイナー神父の霊的指導によって、霊的苦しみを受容。
⇒黙想を指導に来たイエズス会のノイナー神父にも、マザーは霊的苦しみを告白しました。ノイナー神父の指導によって、マザーは10年来苦しんできた霊的苦しみを、イエスの望みとして受け入れることができました。
1961年 10月、「神の愛の宣教者会」第1回総会、マザーを総長に選出。
1962年 4月、インド政府よりパドマ・シュリ賞を受ける。初めての大きな賞。/8月、フィリピンでマグサイサイ賞を受ける。/10月11日、第二バチカン公会議始まる。
1963年 3月25日、「神の愛の宣教者会」の男子会創立。
⇒第三修練のためカルカッタを訪れていたオーストラリア人のイエズス会司祭、アンドリュー神父は、マザー・テレサから依頼されて「神の愛の宣教者会」にブラザー部門を創立する決意をしました。
1965年 2月1日、「神の愛の宣教者会」教皇庁立の修道会となる。/ベネズエラのココロットに、海外で初の修道院を開くためシスター・ニルマラらを派遣。
教皇庁立の修道会になったことで、「神の愛の宣教者会」は海外に宣教師を派遣できるようになりました。最初に派遣された宣教師の1人は、後にマザーの後継者になったシスター・ニルマラでした。
1965年 12月8日、第二バチカン公会議閉会。
1968年 ローマに修道院を開設。/アサンソール近郊に、ハンセン氏病患者のための施設「シャンティ・ナガル」(平和の家)開設。
1969年 マルコム・マゲリッジ、映画『すばらしいことを神様のために』を公開。
⇒この映画と、同時に発売された同じタイトルの本のために、マザー・テレサの名前は世界中に知れ渡りました。この本は日本でも、澤田和夫神父様によって『マザー・テレサ すばらしいことを神様のために』(女子パウロ会)というタイトルで翻訳され、出版されました。
1971年 ヨハネ23世平和賞受賞。
1972年 母ドラナフィル帰天。翌年、姉のアガも帰天。
1975年 10月、マイケル・ヴァン・デア・ピート神父に霊的苦しみを告白。
⇒ローマで黙想指導に来た「聖心の司祭会」のマイケル・ヴァン・デア・ピート神父にも、マザーは霊的な苦しみを告白しました。
1975年 カルカッタに長期療養者のための施設「プレム・ダン」開設。/『タイム』誌の表紙にマザーの肖像が使われる。
1976年 「神の愛の宣教者会」女子観想会創立。
1978年 東京の山谷に、「神の愛の宣教者会」のブラザーたちの家が開かれる。
1979年 千葉茂樹監督、映画『マザー・テレサとその世界』公開。/「神の愛の宣教者会」男子観想会創立。/12月11日、ノルウェーオスロにてノーベル平和賞受賞。
(2)マザー自身の言葉
「最初に開いた小さな学校には、はじめの日5人の子どもしか集まりませんでした。そのあと、子どもの数は少しずつ増えていきました。今では、その場所に建てられた学校に毎日500人以上の子どもたちが通っています。」
「わたしは子どもたちにアルファベットから教え始めました。彼らはもう大きな子どもたちでしたが、学校に全く通うことができず、学校も彼らを拒否していたからです。そのあと、実践的な衛生の知識を教えました。どうやって身体を洗うかを教えたのです。次の日には、わたしが教えていた学校から2、3人の少女たちがやって来て、わたしを手伝ってくれました。活動はしだいに大きくなり始め、わたしが教えていた学校の教師だった女性たちも手伝いにくるようになりました。」
「わたしはロレット修道会で一番幸せなシスターでしたから、そこでやっていた仕事を捨てるのだって、もうかなりの犠牲でした。でも、修道女の生活をやめたわけではありません。仕事の内容が変わっただけなのです。」
「今日、わたしはいいことを学びました。貧しい人々の貧しさは、非常に厳しいものだということです。部屋を探して歩き回っていたとき、わたしは足と腕が痛くなるほど歩きに歩きました。わたしはそのとき、貧しい人々の体と心が、家や食べ物、助けを求めているときに同じような痛みを感じているに違いないと思ったのです。そのとき、誘惑が起こってきました。ロレットの宮殿のような建物が、こころの中に入り込んで来たのです。…これは、修道会が誕生する前夜の闇なのでしょう。」
「修道会に入るためにやって来た最初の10人の少女たちは、全員わたしが教えていた学校の生徒たちでした。彼女たちは、貧しい中でも最も貧しい人たちに仕えるため、自分を捨ててわたしのところにやってきたのです。」
「ロレット修道会の総長は、わたしがロレット修道会の修道女たちにとって大きな脅威なのではないかと心配し、学生たちがわたしと一緒に何かをすることを禁じました。しかし、彼女たちがわたしのもとに来るのを妨げようとするすべての試みにもかかわらず、参加を望んでやってくる学生の数はどんどん増えています。」
「1950年の10月、教皇様はわたしたちの小さな共同体を教区立の修道会にしてくださいました。その15年後、教皇様はわたしたちの会を教皇庁立にしてくださいました。直接、教皇様の下に置いてくださったのです。これはとても大きな奇跡でした。なぜなら、規則からいって修道会がそんなに早く教皇庁立になるということはありえなかったからです。」
「最初の10年間、わたしたちはカルカッタの外に出ませんでした。シスターたちを活動のために訓練する必要があったからです。わたしたちがドゥランチに最初の家を開き、次にデリーに家を開いたのは1959年のことでした。シスターたちの数は増え始め、わたしたちが家を開いた場所からも召命が集まってきました。」
「わたしの心の中には、まるですべてが死に絶えてしまったかのような恐ろしい暗闇があります。この状態は、わたしが神から与えられたこの仕事を始めたあたりから始まったようです。」
「わたしは、愛と魂を求めるイエスの渇きを癒すことによって聖人になりたいです。もう一つの大きな望みは、わたしたちの会から多くの聖人を母なる教会に送り出すことです。」
「25日5時45分にわたしはパン・アメリカン航空で発ち、26日6時半アメリカに着くはずです。わたしは出発しますが、頭と心はあなた方と一緒にいます。これは神の御旨なのですから、心配しないように。」(初の訪米に際して)
「パドマ・シュリとマグサイサイは、多くの人、特に政府関係者が教会のインドに対する愛を知るために役立つでしょう。宣教師は、教会がその国に送ることができる最高の贈り物なのです。」
「わたしが世間にとって何ものでもなく、またわたしにとって世間が何ものでもないように、どうぞお祈りください。」
「1963年に大司教様が男子修道会を始める許可を下さいました。わたしたちは、学校の男の子たちや『死を待つ人の家』の男性患者たちの面倒を見る男性が必要だと感じていました。他にも港湾労働者のための仕事など、女性にはできないことがたくさんあります。」
「イエスはあなたのため、わたしのため、ハンセン病の患者のため、空腹で死にかけている人のため、裸で道に横たわっている人のために十字架上で死にました。そのような人は、カルカッタの道だけでなく、アフリカの、ニューヨークの、ロンドンの、そしてここオスロの道にもいるのです。」(ノーベル平和賞授賞式にて)