バイブル・エッセイ(71) 喜びの充満

 このエッセイは、今日のミサでするはずだった説教に基づいています。

 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。(ヨハネ15:9-13)
 ブドウの木のたとえ話のあとで、イエスは「これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためである」とおっしゃいました。もしわたしたちがイエスの教えを守ってブドウの木につながっているならば、イエスの喜びがわたしたちの喜びとなり、わたしたちを満たしていくというのです。
 喜びはブドウの木を生かす樹液のようなものでしょう。イエスはいつも喜びに満たされて大きく枝を伸ばし、豊かな実を結ぶブドウの木のような方でした。もしわたしたちが枝としてイエスにつながっているならば、わたしたちの心にもイエスを満たす喜びが樹液のように流れ込み、力を与えてくれます。この樹液は、教会の伝統の中で聖霊と呼ばれている方と同じものだとわたしは思います。聖霊は、イエスを通してわたしたちに与えられる喜びの恵みであり、生きる力です。
 では、どうしたらわたしたちはいつもイエスとつながり、喜びに満ちて生きられるのでしょう。そのために、「愛しあいなさい」とイエスはおっしゃいます。わたしたちが神への愛ゆえに、友や苦しんでいる人々への深い共感ゆえに自分の思いを乗り越えていくとき、わたしたちの心に聖霊の喜びが流れ込んでくるのです。そのような喜びの頂点が、イエスの十字架であることは言うまでもないでしょう。友であるわたしたちのために十字架上で自分の命を捨てたとき、イエスの喜びは完全なものになりました。わたしたちも、命を捨てるほど友を愛し抜いたとき、きっとイエスと同じ喜びで満たされることでしょう。そのとき、わたしたちの喜びは完成するのです。
 愛し合うことで自分を乗り越え、いつもイエスとつながっていましょう。喜びの樹液に満たされた、力強い枝として生きていきましょう。
※写真の解説…アルプスの三大名花の一つ、エンツィアン。昨年5月、六甲山高山植物園にて。