バイブル・エッセイ(75) 悲しみは喜びに変わる


 「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」そこで、弟子たちのある者は互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」また、言った。「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」
 イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。(ヨハネ16:16-20)

 イエスの言葉通り、イエスが弟子たちから取り去られたとき弟子たちは泣いて悲嘆に暮れることになりました。自分たちの唯一の拠り所であり、希望であり、生きる力の源であったイエスが取り去られたとき、弟子たちの心は悲しみで打ち砕かれたのです。愛する師を裏切り、見殺しにしてしまった弟子たちの悲しみは、きっとわたしたちの想像をはるかに越えるものでしょう。
 なぜ弟子たちはこれほどの苦しみを味わわなければならなかったのでしょうか。それは、彼らの心を満たしていた自分自身により頼む心、神よりも自分を大切に思う心が完全に打ち砕かれるためだったのだろうと思います。自分のふがいなさ、臆病さ、弱さをこれ以上ないくらいはっきりと味わったことで、彼らのエゴは完全に砕かれ、崩れ去っていったのです。後に残ったのは、ただ神だけをより頼む空っぽの心だけでした。
 この空っぽの心に、復活の喜びが注がれました。彼らの心は隅々まで砕かれ空っぽになっていたので、復活の喜びは彼らの心の隅々にまで行きわたり、もはや生涯彼らを離れることがありませんでした。悲しみが心の一番深いところにまで食い込んだのは、彼らの心の一番深いところにまで喜びをいきわたらせるためだったのです。
 わたしたちの生活の中でも、似たようなことがあるのではないでしょうか。悲しみは、わたしたちの心を打ち砕き、喜びを注ぐ準備をするための神様の道具なのだとわたしは思います。自分が空になればなるほど、たた神だけにより頼む思いが深ければ深いほど、イエスと出会った時の喜びもまた大きいのです。悲しみの中にあるとき、そのことを忘れないようにしたいものだと思います。
※写真の解説…エンツィアンなどの花が咲き乱れるロックガーデン。高山植物園にて。