バイブル・エッセイ(76) 天国への階段

 このエッセイは5月24日、「主の昇天」のミサでの説教に基づいています。
 エスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて洗礼を受ける者は救われるが、信じない者は滅びの宣告を受ける。信じる者には次のようなしるしが伴う。彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る。」
 主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。一方、弟子たちは出かけて行って、至るところで宣教した。主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。(マルコ16:15-20)

 復活したイエスは、それまで堅く閉ざされていた地上の世界と「神の国」の間にある門を開いて天に昇って行かれました。わたしたちもイエスの後についていくならば、いつかその門をくぐって「神の国」に入っていくことができるでしょう。そのことを思い出し、神に感謝するのが「主の昇天」の祝いの意味だと思います。
 わたしたちキリスト教徒の生涯は、イエスがおられる「神の国」に向かって一歩一歩階段を上っていくようなものでしょう。階段とは、日々の生活の中でわたしたちが捧げる自己犠牲と愛の業です。自分の思いを捨て、神の思いに身を委ねて愛の業を行うとき、わたしたちは階段を一歩上がることができるのです。
 階段だけを見ていると、一体いつまでこの階段は続くのだろうと思って嫌気がさしてくるかもしれません。そんなとき、目を上に向けたいものです。階段のはるかかなたに十字架が立っており、その向こうから「神の国」の光がさしているのが見えるでしょう。十字架のかなたにその光を見るとき、わたしたちは励まされ、力を与えられてまた階段を上り続けることができます。
 そのようにして登っていくと、ある日わたしたちは十字架の前に出ます。それは「死」と呼ばれる出来事なのかもしれません。ですが、十字架は終点ではなく、「神の国」に至る門なのです。イエスと同じように、わたしたちも十字架を通って「神の国」に入ることができるのです。
 いつも目を高く上に向け、十字架のかなたから輝く光に照らされながら一歩一歩階段を登っていきましょう。「神の国」の門は、すでに開かれてわたしたちを待っています。
※写真の解説…六甲山ガーデンテラスから見た神戸の街並み。