バイブル・エッセイ(77) 与える幸い


  そのとき、パウロは言った。「わたしが三年間、あなたがた一人一人に夜も昼も涙を流して教えてきたことを思い起こして、目を覚ましていなさい。そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。わたしは、他人の金銀や衣服をむさぼったことはありません。ご存じのとおり、わたしはこの手で、わたし自身の生活のためにも、共にいた人々のためにも働いたのです。あなたがたもこのように働いて弱い者を助けるように、また、主イエス御自身が『受けるよりは与える方が幸いである』と言われた言葉を思い出すようにと、わたしはいつも身をもって示してきました。」(使徒20:31-35)
 「わたしは世に属していない」と言ったイエスの言葉は、パウロの伝えたこのイエスの言葉、「受けるよりは与える方が幸いである」によって証されています。もしイエスが世に属するものであれば、世の考え方に従って「与えるよりは受ける方が幸いである」と言ったことでしょう。ですが、イエスはそれと全く逆のことを語られました。
 この世の考えでは、受けることの方が与えることより幸せでしょう。財産、地位、名誉、権力、よい評判などを受けること、受けたものを実力の結果だと考え自分の力で何でもできると思いこむこと、それがこの世的な意味での幸せだろうと思います。
 ですが、イエスの言う幸せはそれとまったく違います。自分が持っているものを与えること、財産にしても名誉にしても権力にしても、すべてを与え尽くして自分は空っぽになること、それがイエスの幸せです。自分の力だけでは何もできないのを認めてただ神様により頼むこと、与えられたものを喜んで神様に返すこと、それこそがイエスの幸せなのです。
 パウロは、イエスのこの言葉が秘めた真理を深く悟っていました。人間の力がどれほどはかなく空しいものであるか、神により頼むことがどれほどの慰めと平安をもたらすか、身をもってを知っていたのです。だからこそ、殉教に至るまですべてのものを神様に返すことができたのでしょう。パウロにならって、わたしたちも与えることの幸いを心の奥深くで悟ることができるように祈りましょう。
※写真の解説…「ブラスバンド」という名前のバラ。伊丹市、荒牧バラ園にて。