マザー・テレサに学ぶキリスト教(5) マザー・テレサの霊性② 「暗闇の聖人」(前半)

第5回 マザー・テレサ霊性②「暗闇の聖人」
前回、「喜びの使徒」としてのマザー・テレサの一面を紹介しました。今回は、別の側面から彼女の霊性を見てみたいと思います。それは、「暗闇の聖人」としての側面です。

Ⅱ.「暗闇の聖人」
マザーは霊的指導者であるイエズス会のノイナー神父に宛てた手紙の中で、自分が感じている「霊的な闇」の苦しみを告白した上で次のように書いています。
 「もしわたしが聖人になるなら、『暗闇の聖人』になるでしょう。いつも天国を留守にして、地上で闇の中にいる人々のために灯りをつけてまわるでしょう。」
 自分自身の心の中に深い「霊的な闇」を抱えていたマザーは、同じ暗闇の中にいる人たちの心に灯りをともすような聖人になりたいと願っていたのです。マザーにこのような決意をさせた「霊的な闇」とは一体どのようなものだったのでしょうか。

1.「霊的な闇」の発見
 マザーの「霊的な闇」について、シスター・ニルマラは次のように語っています。
「1958年5月以来、わたしはマザーとずっと一緒にいましたが、わたしたちの誰1人として、マザーの内面で起こっていたことについて想像さえできなかったと証言することができます。」
 一番身近な存在であるシスターたちですら知らなかったマザーの「霊的な闇」、その存在がわたしたちの間で知られるようになったのは2001年のことでした。マザーの霊的指導者の一人であったイエズス会員ローレンス・ピカシー神父とマザーとの間に交換された手紙を、イエズス会アルバート・ヒュアート神父がインドの神学雑誌 “Vidiya Joti Magazine”とアメリカの神学雑誌 “Religious Review”で紹介したのです。
 その後、マザーの列福調査が進んでいく中でマザーが霊的指導者との間で交換した手紙が収集されていきました。それらの資料の集大成として「神の愛の宣教者会」の司祭でマザーの列聖運動の担当者、ブライアン・コロディエチェク神父によって出版されたのが、 “COME BE MY LIGHT”でした。この本の内容が知れ渡ると、 “TIME MAGAZINE”を始めとする世界のマスメディアが「マザー・テレサの隠された生活」について一斉に報じ始めました。
 こうして今では誰もが知るようになったマザーの「霊的な闇」ですが、 “COME BE MY LIGHT”を読む限りマザーの生前このことを知っていたのは、カルカッタ大司教であったイエズス会ペリエール大司教、マザーの霊的指導者であったイエズス会員ヴァン・エクセム神父、ピカシー神父、ノイナー神父、そして「聖心の司祭会」のマイケル・ヴァン・デア・ピート神父の5人だけです。

2.2つの段階
 マザーの「霊的な闇」は1949〜50年頃、マザーがイエスから与えられた仕事を始めた直後に始まりました。その闇は1997年にマザーが帰天するまで50年近くにわたって続きましたが、1961年にノイナー神父の下で行った黙想な中で闇に対するマザーの内的な態度に大きな転換があったように思われます。
 ノイナー神父の指導を受ける前のマザーは、イエスから何の霊的慰めも与えられない苦しみを味わいながら、その状態を神の御旨として受容することに努めていました。ですが、ノイナー神父の指導を受けたあとのマザーは、「霊的な闇」をイエス自身の闇、貧しい人々の心の闇と重ね合わせ、それを彼らと共に苦しむことが自分の使命だと考えるようになっていったのです。

3.第一段階(1949〜1961)
(1)「恐ろしい闇」
 マザーは、1953年になって初めて自分の心の中に起こっている恐ろしい出来事を人に打ち明けました。ペリエール神父に宛てた手紙の中でマザーは次のように書いています。
「わたしの中に恐ろしい闇があります。まるですべてが死に絶えてしまったかのようです。『この仕事』を始めた頃から、ずっとこんな状態が続いています。」
 「この仕事」とは、スラム街に出て貧しい人々のために働くこと、彼女と共に貧しい人々のために働く修道女を集めて修道会を組織することです。神の呼びかけに応えて動き始めた直後から、マザーの心の中に言いようもない闇が広がり始めたのです。
(2)「孤独」
 それと同時に、マザーは孤独の苦しみも訴えています。
「どういうわけか分かりませんが、わたしの心の中には表現することができないほどの孤独があります。」
 マザーの闇は、人に話しても理解してもらえないような、話すことさえできないような種類の闇だったのです。そのため、マザーは「霊的な闇」に独りで立ち向かわざるをえませんでした。マザーはこの苦しみを次のようにも書き記しています。
「わたしは何も言い表せないのです。なぜこうなるのか、自分でもわかりません。神様は、きっとわたしが孤独であることを望んでおられるに違いありません。」
 底知れない暗闇の中に一人ぼっちで取り残されたマザーの苦しみは、一体どれほどのものだったのでしょうか。
(3)「恐ろしい痛み」
 マザーは、闇と孤独がもたらす痛みについて次のように書いています。
「イエスよ、今わたしは誤った道を進もうとしています。地獄にいる人々は、神を失ったために永遠の痛みを味わうとよく言われます。魂の中で、わたしは恐ろしい痛みを感じているのです。それは喪失の、神がわたしを望んでいないということの、神が神ではないということの、神が実は存在しないのだということの痛みです。」
 イエスの存在をまったく感じられなくなったマザーは、神がいないのではないかという疑いに駆られるほどの苦しみを味わったのです。それでも、マザーはなんとか祈ろうとしますが、結果は次のようなものでした。
「思いを天に向けようとするとき、どうしようもない空虚さにぶつかります。天に向けようとした思いは、するどいナイフのように戻ってきて、わたしの魂を傷つけるのです。愛は何ももたらしてはくれません。それはただの言葉のように響きます。」
 祈ろうとしても祈れない苦しみの中で、マザーはただひたすら闇に留まるほかありませんでした。愛さえも、温もりをもたらさないただの言葉に変えてしまう冷たい闇の中で、マザーは苦しみ続けたのです。
(4)「憧れゆえの苦しみ」
 ピカシー神父に宛てた手紙の中で、マザーはこの苦しみを「憧れゆえの苦しみ」だと分析しています。
「わたしの心は苦しみでいっぱいです。愛が人をこれほどまでに苦しめるとは知りませんでした。この苦しみは喪失ゆえの、憧れゆえの苦しみです。人間的な苦しみですが、神によって引き起こされたものです。」
エスを失ったときに感じたこの痛みは、逆に言えばそれまでマザーにとってイエスがどれほど身近でリアルな存在だったかを示しています。マザーはロレット修道会を離れる前、アサンソールに滞在していた頃のイエスとの深い交わりを次のように回想しています。
「アサンソールでは、まるで主がわたしに自分をまるごと下さったようでした。ですが、甘美で、慰めに満ち、主と固く結ばれたその6カ月は、あっという間に過ぎてしまいました。」
 まるで結婚したばかりの女性が、新婚生活の初めを振り返って語ったような言葉です。これほど深く結ばれていた人が急にいなくなってしまったことで生じた喪失感、いなくなってしまった人への憧れ、それがマザーに言語に尽くしがたいほどの苦しみをもたらしました。その苦しみは、若くして夫に先立たれた妻の苦しみに似ているかもしれません。マザーは、次のようにも語っています。
「さびしさのもたらす痛みがあまりに大きく、同時に『いなくなってしまった方』への憧れがあまりに深いため、わたしはもう『イエスの聖心よ、あなたを信じます』としか祈ることができません。」
 イエスの存在を感じられない苦しみの中で、マザーはただイエスの聖心に示された神の愛だけにすがっていったのです。
苦しみの中でマザーを支えていたのはイエスへの信頼だけだったことが、次の言葉からも分かります。
「わたしの心の中では、すべてが凍りついています。ただ盲目的な信仰だけがわたしを支えています。」
 マザーのお母さん、ドラナフィルは、マザーを送り出すときに「どんなときでもイエスの手をしっかり握っていなさい」と言ったそうですが、この先の見えない暗闇の中でマザーはこの言葉を思い出したのかもしれません。ただひたすらイエスの手にしがみついてこの暗闇を乗り切っていこうとマザーは決意したのです。マザーは後に、次のようにも語っています。
「わたしはイエスの前を進む必要がないので、暗闇の中にあっても道筋は確かです。」
 マザーは、先立って進むイエスの背中を見失うまいという懸命な努力によって、暗闇の道を迷うことなく進んでいったのです。
(5)慰め
 このような苦しみの中でも、ときには慰めが与えられることがあったようです。
①貧しい人々との接触
 「霊的な闇」の時期に、マザーは次のように書いています。
「スラム街を通ったり、貧しい人たちの家に入ったりすると、そこには必ず主がおられます。」
 厳しい「霊的な闇」の中でも、マザーは貧しい人々の中にイエスをはっきりと感じることができたようです。闇の中にいたマザーにとって、貧しい人々の触れ合いは神の恵みに触れることができる数少ない機会だったのです。
②散発的な恵みの体験
 祈りの中でも、ときには恵みが与えられることがあったようです。1958年にペリエール大司教に宛てた手紙の中でマザーは次のように書いています。
「わたしは、神様がわたしたちの会を喜んでいるのかどうか確認したくて祈っていました。するとそのとき、あの長く続いていた暗闇、喪失の痛み、孤独感、10年も続いたおかしな苦しみが消え去ったのです。今日、わたしの心は表現できないほどの喜びを伴う愛で満たされています。愛の固い絆で満たされています。」
 ですが、この恵みのときは約1ヵ月しか続きませんでした。2週間後にペリエール大司教に宛てて書いた手紙の中で、マザーは次のように書いています。
「主は、わたしがトンネルの中にいた方がいいと思っておられるようです。主は、もうわたし独りを残して去っていかれました。主が下さった愛の1ヵ月に感謝しています。」
 散発的に与えられるこのような短期間の恵みの体験は、たとえ短い期間で取り去られたにしても、闇の中を歩み続けるマザーの信仰を支える豊かな糧になったことでしょう。
③新しい修道女たちの存在
 マザーは、新しい修道女たちが育っていく姿を見るときにも、大きな喜びを感じることができたようです。そのことは、次の言葉から分かります。
「新しく入会してきた修道女たちは、今まさに聖人へと開花しつつあります。彼女たち全員が、わたしにとって大きな喜びです。彼女たちを見ていると、わたしは仕事の量を2倍に増やすことさえできます。」
(6)「魂を得るための代償」
 「魂の闇」と向かい合っていく中で、マザーはこの闇を人々の魂の救いの代償として理解しようと努めていきます。1956年にペリエール大司教に宛てた手紙の中で、マザーは次のように書いています。
「神のもとに人々の魂を連れていこうと望むなら、わたし自身がどれほど神に近づかなければならないかをこれまで以上に理解できるよう、どうぞお祈りください。」
 霊的な苦しみは自分自身が神に近づくための試練であり、その試練は人々の魂を神の近くまで連れていくために不可欠なものだと考えることで、マザーは霊的な苦しみを乗り越えていこうとしたのです。
 同じくペリエール大司教に宛てた手紙の中で、マザーは次のようにも語っています。
「この苦しみが神をわずかでも喜ばせるか、あるいは一つの魂を神への愛に導くのなら、たとえ永遠にでもこの恐ろしい苦しみの中にとどまり続けさせてください、とわたしはイエスの聖心にお願いしました。」
 神の愛のシンボルであるイエスの聖なる心に向けられたこの祈りの中に、一つでも多くの魂をイエスのもとに運びたいというマザーの並々ならぬ決意が読み取れます。たった一つの魂をイエスのもとに運ぶだけのためにでも、永遠の苦しみに耐えてみせるというのです。
 1959年頃にピカシー神父の指導を受けて書いた神への祈りの言葉の中で、マザーは次のように語っています。
「もしこの苦しみがあなたに栄光をもたらすなら、あなたがほんのわずかな喜びでもこの苦しみから得るなら、もし人々の魂を運ぶことができるなら、もしわたしの苦しみがあなたの『渇き』を癒すなら、わたしはすべての苦しみを人生の最後まで受け入れます。わたしは、あなたの隠れた顔に向かってどんなときでも微笑み続けるつもりです。」
 このときマザーは自分の苦しみがどのように人々の魂の救いとつながるのか分かっていませんでした。ですが、この苦しみには必ず意味があると信じることで、この苦しみを受け入れようとしたのです。
(7)受容
 こうしてペリエール大司教やピカシー神父から霊的指導を受ける中で、マザーは次第に「霊的な闇」をあるがままに受容できるようになっていきます。1959年4月にピカシー神父に宛てて書いた手紙の中で、マザーは次のように語っています。
「このことを、わたしはもう心配していません。他のすべてのことをイエスに委ねたのと同じように、このこともイエスに委ねました。わたしは柔和で謙遜なイエスの聖心のままに、聖人になりたいのです。今のわたしは、そのことしか考えていません。」
 マザーはイエスの不在の苦しみさえイエスに委ねることによって、「霊的な闇」を受け入れようとしたのです。ピカシー神父に宛てた手紙の中で、マザーは次のようにさえ語っています。
「わたしの心の中には、恐ろしい闇と混乱、孤独しかありません。ですが、もし人生の最後までこのような状態が続いたとしても、わたしは完全に幸せです。」
 なぜ「霊的な闇」の中でも幸せだと言えるのでしょうか。後にノイナー神父に自分の霊的な状況を説明した手紙の中で、マザーは次のように語っています。
「神が、望まれることを望みのままに、いつまででもわたしを使ってすることができますように。もしわたし闇が幾人かの魂を照らすならば、いえ、もし仮に誰の役にも立たなかったとしても、野に咲く神の花として生きることだけでわたしは完全に幸せです。」
 「野に咲く神の花」という言葉は、マザーの霊名の由来になっている聖人、リジューのテレジアを思い起こさせます。リジューのテレジアがそうであったように、名もなく目立たない小さな花であったとしても、神のために咲き続けることができるだけで幸せだとマザーも思えるようになったのでしょう。