バイブル・エッセイ(82) 愛のしるし

 このエッセイは、6月14日「キリストの聖体の祭日」に行われた「子どものためのミサ」での説教に基づいています。

 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」
 また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。 はっきり言っておく。神の国で新たに飲むその日まで、ぶどうの実から作ったものを飲むことはもう決してあるまい。」
 一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。(マルコ14:22-26)

 ミサの中で捧げられるパンとブドウ酒は、わたしたちがもう一度受け取るときにはキリストの体と血に変わっています。不思議ですね。見た目は変わっていないのに、なぜそんなことが言えるのでしょう。
 説明するのはとても難しいのですが、ぼくはこんなことではないかなと思います。ぼくは子どものころ「おばあちゃん子」でした。両親とも働いていたこともあって、おばあちゃんに甘えることが多かったのです。ぼくが高校生のころ、おばあちゃんは病気で体の半分が動かなくなり、寝たきりになってしまいした。でも、ぼくが大学受験のために勉強していたとき、おばあちゃんはぼくが風邪をひかないようにと効かない手を使って一生懸命に帽子を編んでくれたのです。ぼくはその帽子をかぶって受験生の冬を乗り切ることができました。そのあと、数年しておばあちゃんは天国に行ってしまいました。
 神父になる勉強を始めるために家を出る準備をしていたとき、その帽子が出てきました。手に取ってみると、なんだかおばあちゃんのぬくもりが残っているようで、涙が出てきました。かぶってみると、まるでおばあちゃんが頭に手をのせてくれたようでした。おばあちゃんの愛情がいっぱい詰まったその帽子は、ぼくにとっておばあちゃんの愛そのもののように感じられたのです。まるで、おばあちゃんがそこにいるようでした。
 御聖体にも、似たようなことが言えるでしょう。捧げるときにはただのパンとブドウ酒でしたが、ミサの中でパンとブドウ酒にどれだけイエス様の愛情がこめられているかを思い出すと、もうそれはイエス様の愛そのもののように感じられます。イエス様の愛が隅々までつまったパンとブドウ酒の中には、イエス様ご自身がいるのです。それは、もうわたしたちにとってイエス様の体と血そのものなのです。
 どうでしょうか、なんとなくわかりましたか。パンとブドウ酒のように見える御聖体の中には、イエス様の愛がいっぱいに詰まっています。御聖体を頂くとき、その愛はわたしたちの体の隅々にまで行き渡ります。そのことを思い出しながら、感謝して御聖体を頂けるといいですね。
※写真の解説…雨に濡れたバラの花。須磨離宮にて。