バイブル・エッセイ(85) 2つのよみがえり


 エスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」 そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。
 さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。
エスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。
 イエスは、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」
 イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。一行は会堂長の家に着いた。
 イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。(マルコ5:21-43)

 今日の福音では、2つの奇跡的治癒の物語が、1つが他の1つを挟み込むような形で語られています。わたしはこの2つの物語を「2つのよみがえりの物語」として読みたいと思います。ともに12年のあいだ神の救いを求め続けた2人の女性がイエスの愛に触れてもう一度生きる力を与えられ、よみがえった、そのような物語として読みたいのです。
 1つ目の物語には、12年のあいだ出血病で苦しみ続けた女性が登場します。出血している女性を汚れたものと見なす当時のユダヤ社会の中で、人々から蔑まれ、孤独の中に生きていた女性です。一縷の希望を託して全財産を渡した医者たちからも欺かれ、1文無しになった彼女は、深い苦しみと悲しみの中で最後の希望をイエスにかけました。イエスの服にでも触れれば自分はきっと救われる、そう信じたのです。
 人ごみをかき分けてイエスの服に彼女が触れたとき、奇跡が起こりました。長いあいだ彼女を悩ませていた体の不調が、一瞬にして消え去ったのです。そのときこの女性がどれほどよろこんだか、その様子が目に浮かぶようです。苦しみと悲しみに押しつぶされかけていた1人の女性が、このときイエスの愛に触れて生きる力を与えられ、よみがえったのです。
 2つ目の物語には、12歳になるまで病で苦しみ続け、ついに死の闇に飲み込まれていった1人の少女が登場します。おそらく幼いころから病弱だった彼女は、両親に心配をかけ、経済的な負担をかけ続けていることを申し訳なく思って自分を責めることもあったでしょう。元気に遊んでいる他の子どもたちを見て、なぜ神様は自分にこのような病気を与えたのかと悩むこともあったかもしれません。そのような苦しみの中で、両親の祈りも空しく彼女はついに死の闇の中に飲み込まれていきました。
 「起きなさい」というイエスの静かな声に呼び戻されて目を覚ましたとき、彼女は目の前にまばゆい光の中で愛情深く自分を見つめるイエスのまなざしを見ました。そのときこの少女がどれほどうれしかったか、涙を流して飛び起きる少女の姿が目に浮かぶようです。苦しみと悲しみの中で死の闇に飲み込まれかけていた1人の女性が、このときイエスの愛に触れて生きる力を与えられ、よみがえったのです。
 この2つの物語は、わたしたちに大きな希望を与えてくれます。苦しみと悲しみの中にあってもイエスを求め続け、その服のすそにでも触れることができれば、そのとき必ずわたしたちに救いが訪れます。もしイエスを見つけることができず、苦しみと悲しみの中で死の闇に飲み込まれそうになったとしても、イエスは必ずわたしたちを死の闇から呼び起こしてくださいます。目を開いたとき、わたしたちはそこに愛情あふれるイエスの微笑みを見つけることでしょう。どんな苦しみや悲しみの中にあるときでもこの希望の物語を忘れず、イエスの愛を信じて歩んでいきたいものです。 
※写真の解説…徳川道の杉木立。