このエッセイは、7月12日に行われた「子どもとともに捧げるミサ」での説教に基づいています。
そのときイエスは十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして「下着は二枚着てはならない」と命じられた。
また、こうも言われた。「どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。」
十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。(マルコ6:7-13)
神様の教えをたくさんの人に知らせるために、イエスが弟子たちを旅に送り出す場面です。これから長い旅をする弟子たちに向かって、イエスは食べ物も着替えもお金も持っていくなと言っています。イエスは、なぜこんなことを言ったのでしょう。
わたしたちが1週間の旅行をするとき、だいたいスーツケースに一杯の荷物ができます。重くて大きなスーツケースです。もし弟子たちがそんな荷物を持って旅に出たとしたら、どんなことが起こるでしょう。もし高い山の上に住んでいる人たちが神様の救いを待っていたとしても、そんな荷物を持って山に登ることはできないので行くのをあきらめてしまうかもしれません。もう少し先の村の人が救いを待っていたとしても、荷物の中の食料が足りなくなったら引き返さなければならないでしょう。急いで助けてほしい人がいても、着替えの洗濯をしていて間に合わなくなることだってあるかもしれません。
大きな荷物を持っているとこういうことになってしまいます。神様は、弟子たちに一人でも多くの人を助けてほしいのですが、弟子たちは持っていった荷物のことばかり考えて神様の言いつけを十分に守ることができなくなるのです。弟子たちがそんなことにならないように、イエスは荷物をできるだけ少なくするようにと言ったのだと思います。神様に遣わされて旅に出るとき、荷物は少なければ少ないほどいいのです。
これは、手に持つ荷物だけに限らないでしょう。心の中の荷物も少ないに越したことはありません。もしわたしたちの心の中に「自分はみんなから好かれたい」という思いが荷物になっていれば、クラスのみんなから嫌われている子のそばにいって仲良くすることはできないでしょう。そんなことをすれば、他のみんなから嫌われてしまうからです。神様がわたしたちを通して神様の愛をその子に伝えたいと思っていても、心の中の荷物がそれをじゃましてしまうのです。
神様の愛をみんなに伝えていくためには、手に持つ荷物も心の中の荷物も少なければ少ないほどいいのです。もしみんなの心の中に大きな荷物があれば、このミサの中で神様にそれをお捧げしましょう。そして、ミサが終わった後、軽々とした足取りで福音宣教へと旅立っていきましょう。
※写真の解説…森林植物園にて。