マザー・テレサに学ぶキリスト教(9)イエスとは誰か①「人となった神」

第9回イエスとは誰か①〜人となった神
 今回から夏休みに入るまでの講座では、マザー・テレサの言葉を手がかりにしながらイエス・キリストが誰だったのかについて考えてみたいと思います。イエス・キリストは全人類の救い主だといわれますが、一体どんな意味で救い主なのでしょう。イエスは、いったいどうやってわたしたちを救ってくれるのでしょう。
 考えるためのキーワードとして、①受肉、②十字架、③復活、④「貧しい人の友」という4つの言葉を選びたいと思います。

Ⅰ.人となった神〜イエス・キリスト
 イエスが伝えた福音について、マザー・テレサは次のように言っています。
「『恐れるな。見よ、わたしは大いなる喜びの福音をあなたたちに伝える』と聖書にあります。神がこの世に知らせるために天使を送った大いなる喜びの福音とは、何なのでしょうか。
 その福音とは、神がわたしたち一人ひとりを愛しているということです。神は、御自分の一人子を『共におられる神』として、わたしたちの一人として、わたしたちと共にとどまらせるために送られるほど、わたしたちを愛してくださったのです。」

 これは不思議な言葉です。イエスは人間でありながら、「共におられる神」だというのです。神がイエスにおいて人間としてわたしたちの中に留まってくださった、神はそれほどまでにわたしたちを愛してくださっている、それこそが福音だというのです。
 普通に考えれば、無限で永遠の神が人間になれるはずがありませんし、人間が神になることもありえません。人間は、多くの限界を抱えた弱い存在だからです。マザーは、一体何を言っているのでしょう。イエスが「共におられる神」だとは、一体どういうことなのでしょう。

1.受肉の神秘
神がわたしたちと同じ人間になったという神秘を、キリスト教では伝統的に「受肉」という言葉を使って説明してきました。この言葉は、聖書の次の箇所に由来しています。
「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。」(ヨハネ1:14)
(1)「神の言」としてのイエス
 「言」とはイエス・キリストのことです。イエス・キリストは、その存在全体が神の思いを表現するための「言」だというのです。「言」というのは、口から発せられる音としての言葉だけに限りません。イエスの存在全体が、神の自己表現としての「言」なのです。普通、わたしたちの発する言葉や、作る仕草、表情などは、わたしたち自身の思いを表現するものですが、イエスの場合、その言葉も仕草も表情も、すべてが神の思いを表現するものだということです。人間としてのイエスの声や身体において、神がこの世界にその思いを伝えた、ここに「受肉」の神秘の核心があります。

(2)「共におられる神」
 わたしたちは、どんなに目を凝らしたとしても肉眼で神を直接見ることはできませんし、耳を澄ましても耳で神の声を聞き取ることはできません。なぜなら、神は身体も声も持っていないからです。神はわたしたちとは存在の様式がまったく異なるので、わたしたちはいかなる意味でも神に直接触れることができません。
 しかし、自分が造った人間を愛してやまない神は、わたしたち人間に自分の愛を伝えたくて仕方がありませんでした。たくさんの人間たちが愛を求めて苦しんでいるのを見るに見かねたのです。そこで、旧約の時代に神は「燃える柴」や預言者が見る夢、聖霊、天使などを通して人間に語りかけようとしました。しかし、それらは一時だけの不完全な表現だったので、人間は神の愛を十分に知ることができませんでした。
 時が満ちて、神はついに御自分を完全な形で人間に表現することを決意されました。御自分の「言」、自己表現そのものであるイエスを人間としてこの地上に送り出す決心をされたのです。マリアが天使を通した神からの呼びかけに応じたことで、この神の御旨が実現し、イエス・キリストが誕生しました。神は今や、わたしたちから遠く離れたどこか別の世界に住んでいる見知らぬ神ではなく、人間としてわたしたちと「共におられる神」になられたのです。
(3)「乙女が身ごもって男の子を生む」
 マザー・テレサの言葉の中にある「共におられる神」という言葉は、実は聖書の次の箇所に由来しています。
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。」(マタイ1:23)
 天使がマリアの夫、ヨセフに告げたこの言葉は旧約聖書イザヤ書(7:14)からの引用です。神の愛を信じられない人々に、神は愛の目に見えるしるしとして乙女からインマヌエル(神は我々と共におられる)と名付けられる子どもを誕生させると約束しました。
 この約束はイエスの誕生によって成就されました。神の霊によって乙女マリアから生まれたイエスこそ、このインマヌエルだとわたしたちは信じています。イエスは、神がどれほどわたしたちを愛しているかを示す愛のしるしなのです。
(4)「わたしを見た者は父を見た」
 神の愛が信じられない、神を直接見せてくれという弟子に対して、イエスは次のように言いました。
「こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。」(ヨハネ14:9)
 この言葉は、イエスがわたしたちにとってどのような方なのかをはっきりと教えてくれます。イエスを見るとき、わたしたちは神を見ているのです。イエスが語る愛情に満ちた言葉、その声の調子、イエスが見せる優しいしぐさ、イエスが浮かべる微笑みや涙、それらはイエスの自己表現であると同時に、すべて神の自己表現なのです。
 現代に生きるわたしたちは、聖書を通してイエスの言葉やしぐさ、表情などに触れることになります。それらに触れているとき、わたしたちは神に触れているのです。イエスのことを思いめぐらし、祈るとき、わたしたちは神のことを思いめぐらし、祈っているのです。イエスの愛に触れ、イエスの優しさに心を満たされるとき、わたしたちは神の愛に触れ、神の優しさに心を満たされるのです。
(5)「よい知らせを告げるために」
 マザー・テレサは、イエスを通してわたしたちに示されたことを次のように要約しています。
「イエスはわたしたち貧しい者のもとに来てくださいました。神はわたしたちを愛している、わたしたちは神にとって特別なものである、神はわたしたちを偉大なことのために創造された、つまり互いに愛し、愛されるために創造された、これらのよい知らせを告げるために貧しい人々のもとに来てくださったのです。」
 イエスは、まずその存在によって、わたしたちと共にいてくださるという事実によって神の愛を示してくださいました。さらに、その言葉と行いによってわたしたちに神の愛、神の御旨を余すところなく教えてくださいました。
 神の前で人間世界の価値基準がまったく無意味であること、神の前ではすべての人が一人ひとり特別で大切な存在であること、神によって造られたわたしたちは神の愛の中で一つになるべきであること、神の愛をすべての人との間に実現することで創造の目的を達すべきであること。神はイエスの存在と言葉、行いを通してこれらのことをはっきりとわたしたちに教えてくださったのです。
2.1回だけの受肉
(1)「わたしを通らなければ」
 「受肉の神秘」への信仰、神はイエスにおいて完全に御自身を表された、それゆえ神とイエスは一つであるという信仰は、そのような出来事が歴史の中で一度だけ起こったという信仰に結び付きました。唯一の神が御自身を人間の肉体と魂において完全に示すというような奇跡は、歴史の中でそう何回も起こるはずがないし、また起こる必要もないと考えられるからです。
 この信仰は、イエスの次の言葉によく表れています。
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」(ヨハネ14:6)
(2)「山に登る道」
 よく「山に登る道はたくさんあるが、頂上は一つだけだ。宗教もそれと同じで、神に向かって登っていく道としての宗教はたくさんあるけれど、頂上である神は一つだけだ」というような言い方で、どの宗教も平等だという人がいます。しかし、イエスははっきりと「わたしを通らなければ、誰も父のもとへ行くことができない」とおっしゃいました。「受肉の神秘」への信仰から神とイエスが不可分一体と考えるならば、イエスと離れて神に出会うということはありえないのです。
 そもそも、「山に登る道はたくさんある」という言い方は、山の全体像を見た人だけが言えることです。山の全体像、つまり神の救いの業の全体像を知っているのは神御自身だけのはずですから、そのような言い方をする人は自分を神の立場に置いているということになります。
 神御自身であるイエスは、まったく別のことを言っています。イエスが「わたしを通らなければ、誰も父のもとにいくことができない」と言っている以上、イエスを信じるわたしたちは「山に登る道はたくさんある」という人の言うことを信じるわけにはいきません。
(3)イエスを知らない人は救われないのか?
 では、キリスト教を知らない人々、イエスと出会わずに生き、死んでいく人々はいったいどうなるのでしょう。彼らは神様に会うことなく終わるのでしょうか。真の救いを知らないままで終わるのでしょうか。この問題については、後期にまた詳しくお話ししたいと思います。
 後期を待ちきれない方のために結論だけ先に言っておくならば、基本的に、自分の良心に従って神の前に正しい生き方をしている人は誰でも救われうると考えられます。ただしその救いは、仮に本人が気づいていないにしても、イエス・キリストによる救いだということです。山登りの譬えを使って言うならば、「山に登る道はたくさんあるかもしれないが、それらの道は最後にすべてイエスという完全な道を通って神に到達する」ということです。
3.「イエスの聖心(みこころ)」の信心
(1)信心の由来と内容
 「受肉の神秘」についての講義の最後に、「イエスの聖心」の信心についてお話ししたいと思います。
 「イエスの聖心」は、17世紀にフランスの田舎街、パレルモニアルという所で起こったイエスの出現に由来する信心です。マルガリタ・マリア・アラコックという一人の修道女に姿をお見せになったイエスは、もし自分の聖心を信じるならば次の12の約束をかなえると言ったそうです。

①生活のために必要なすべての恵みを与える。
②家庭の中に平和をもたらす。
③どれほど困難なときにも彼らを慰める。
④生涯、特に死の間際に、わたしの聖心のなかに完全な避難所を見つける。
⑤すべての行いのうえに、豊かな祝福を注ぐ。
⑥罪人は、聖心の中に無限の憐みの源を見出す。
⑦生ぬるい霊魂は熱心になる。
⑧熱心な霊魂は、すみやかに大きな完成に到達する。
⑨聖心の御絵や御像を掲げ、崇敬する家庭を祝福する。
⑩司祭たちには、最もかたくなな心さえ感動させる力を与える。
⑪この信心を広める人は、消されることなくその名が聖心の中に書き込まれる。
⑫9ヵ月間続けて初金曜日に聖体拝領する人には、死の時に痛悔の恵みを与える。わたしに嫌われて死んだり、秘跡を受けずに死んだりすることがない。

(2)聖心の信心の広まり
 この信心は、当時のフランスで多くの人々から受け入れられました。そして、マリア・アラコック修道女の指導司祭がクロード・ラ・コロンビエールというイエズス会員であったこともあり、この信心を広める使命がイエズス会に与えられることになりました。聖心女子大学を経営していることで有名な聖心会という修道会がありますが、あの修道会の名前も「イエスの聖心の信心」に由来しています。
エスが与えた12の約束のうち、特に12番目の約束は有名で、今でも初金曜日のミサという形で残っています。六甲教会でも、毎月最初の金曜日には朝10時から特別なミサをしていますが、それは「イエスの聖心の信心」に由来するものです。鷹取教会に、震災で焼け残った有名なイエスの像がありますが、あの像も「イエスの聖心の信心」を表した像です。
(3)なぜ聖心なのか?
 聖心の信心では、一体なぜ心臓に象徴されるイエスの心を特別扱いして崇敬するのでしょうか。あの血を流したイエスの心臓の像や絵は、どうも日本人にはなじみにくいような気もします。
 この信心も、さきほどの自己表現についての考察から理解することができます。まず、人間の体はその人の魂を表すものだという前提から出発します。体に現れた表現を見て、わたしたちはその人の魂がどのようなものなのかを知るからです。
 しかし、体のすべての部分が同じように魂を表しているとは考えられません。足よりは手が、手よりは顔が、よりその人の魂を表すでしょう。17世紀のヨーロッパ人たちは、心が心臓に宿ると考えていましたので、心臓こそその人の魂を最もよく表すものだと考えていました。神の愛そのものであるイエスの魂を最もよく表すイエスの体の部分は、イエスの心の座としての心臓だということです。
 イエスの心臓、すなわちイエスの心に触れることで、人間は神の愛に触れることができるのです。もしイエスに心がなければ、わたしたちは神の愛に触れることができなかったはずです。イエスの心があったからこそ、わたしたちは神の愛に触れ、神が「愛の神」であると知ることができたのです。
 この大きな恵みへの感謝を示しているのが「イエスの聖心の信心」だと考えれば、わたしたち日本人にもなじみが湧くのではないでしょうか。今度もしどこかで心臓が描かれたイエスの絵や彫刻を見たら、このことを思い出しながら祈ってみてください。
(4)マザー・テレサの祈り
 ちなみに、マザー・テレサはこの信心が大好きでした。イエスの聖心だけでなく、イエスのためにすべてを捧げたマリアの聖心への信心も、とても気に入っていました。最後に、マザーが大好きだったマリアの聖心への祈りと、わたしの堅信式のときにマザーが下さったイエスの聖心とマリアの聖心の御絵を紹介して、今日の講義を終わりたいと思います。

《マリアの聖心よ》
 エスの母であるマリアよ、あなたのこころをわたしにください。
 あなたのこころは美しく、清く、けがれなく、愛と謙遜に満ちています。
 わたしもいのちのパンの中におられるイエスを、受け取ることができますように。
 あなたが愛したようにイエスを愛することができますように。
 貧しいなかでも最も貧しい人々のこころ痛む姿のなかにおられるイエスに、
 仕えることができますように。

《聖心の御絵》