バイブル・エッセイ(90)新しい礼拝


 そのころ、ある安息日にイエスは麦畑を通られた。弟子たちは空腹になったので、麦の穂を摘んで食べ始めた。ファリサイ派の人々がこれを見て、イエスに、「御覧なさい。あなたの弟子たちは、安息日にしてはならないことをしている」と言った。
 そこで、イエスは言われた。「ダビデが自分も供の者たちも空腹だったときに何をしたか、読んだことがないのか。神の家に入り、ただ祭司のほかには、自分も供の者たちも食べてはならない供えのパンを食べたではないか。安息日に神殿にいる祭司は、安息日の掟を破っても罪にならない、と律法にあるのを読んだことがないのか。言っておくが、神殿よりも偉大なものがここにある。
 もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう。人の子は安息日の主なのである。」
(マタイ12:1-8)
 「神殿よりも偉大なものがここにある」とイエスはおっしゃいます。これは衝撃的な言葉です。唯一絶対の神を祀った神殿よりも偉大なもの、それは一体何なのでしょう。
 「神殿よりも偉大なもの」、それはイエス御自身のことです。いけにえの動物を神に捧げる石や木の神殿ではなく、憐れみの心を神に捧げる身体の神殿、それこそが最も偉大なものだとイエスは言うのです。わたしたちキリスト教徒にとって、生涯を通して自分の全てを神に捧げ尽したイエスこそ、この世界で最も偉大な神殿なのです。
 復活したイエスは、今世界のいたるところにおられます。そうだとすれば、今やこの世界の全体がわたしたちにとって神殿だと言えるでしょう。この世界は、イエスの霊に満たされた神殿です。わたしたちは、神殿の中に住んでいるのです。
 それだけではありません。イエスと共に神殿に住むわたしたちは、イエスと共に神に犠牲を捧げる祭司でもあります。もちろん、動物の犠牲を神に捧げる祭司ではありません。わたしたちは、イエスと共に自分自身を神に捧げる祭司なのです。
 イエスが来て下さったお陰で、わたしたちにとってこの世界全体が神殿になり、わたしたち全員が祭司になりました。エスと共に神へ自分を差し出していく時、わたしたちのいるその場所が神殿であり、わたしたちは祭司なのです。いつもそのような目でこの世界を見、日々の生活を祭司としてふさわしく整えていくことができればと思います。
※写真の解説…伊勢神宮、外宮にて。