病者訪問奉仕者研修会「キリスト教徒としての病者訪問」①

キリスト教徒としての病者訪問 〜マザー・テレサにならって」 前半
 先日、カトリック神戸中央教会で神戸地区の病者訪問奉仕者研修会が行われました。そこでお話ししたことを文章にまとめてみましたので、どうぞご参考になさってください。長いので、2回に分けて掲載します。
1.ニューマン枢機卿の祈り
 初めに、マザー・テレサが毎日唱えていた「キリストの輝き」の祈りを一緒に唱えてこの会を始めましょう。この祈りは、英国国教会カトリック教会の懸け橋となったヘンリー・ニューマン枢機卿が作ったものです。

「キリストの輝き」

主よ、わたしたちの行くところに、
エスの香りが広がっていきますように。
わたしたちの心に、
あなたの霊といのちをあふれるほど注いでください。
わたしたちのすべてを貫き、
あなたのものにしてください。
わたしたちの人生が、あなたの輝きになるほどに。
わたしたちの中で輝き、
またわたしたちを通して輝いてください。
出会うすべての人が、
わたしたちの心の中にあなたを感じることができますように。
その人たちがもはやわたしたちを見るのではなく、
わたしたちの中にイエスだけを見ますように。
わたしたちと一緒にいてください。
そうすれば、わたしたちはあなたと同じように輝き始めるでしょう。
世の光になれるでしょう。
エスよ、すべての輝きはあなたからのものです。
わたしたちのものではありません。
わたしたちを通して輝いているのは、あなたなのです。
周りにいる人たちにあなたの輝きをもたらすことで、
あなたを讃えることができますように。
説教なしで、あなたを人々に知らせることができますように。
言葉ではなく、わたしたちの生き方によって、
人を魅了する力によって、
行いに込められた思いやりの力によって。
愛に満ちたわたしたちの心を、
あなたにお捧げします。アーメン。

 病者訪問奉仕をするときには、いつもこの祈りの心を持ちたいものだと思います。キリスト教徒としての病者訪問は、イエスに自分のすべてを委ねるところから始まると言っていいでしょう。

2.病者は何を求めているのか
 健康そうに見えるかもしれませんが、わたしはこれまでに5回ほど入院したことがあります。入院していた期間は、合わせると半年くらいになります。23歳のときにインドで重い結核にかかったからです。今日は、そのときの体験も踏まえながらお話ししていきたいと思います。

「この世界でもっともひどい苦しみは、孤独であること、誰からも愛されず、すべての人から見捨てられたように感じることの苦しみだと思います。人間が体験しうる病の中でもっともひどい病は、誰からも必要とされていないということだと、長年の活動を通してわたしはますます確信するようになりました。」(マザー・テレサ)
 マザー・テレサは、人間が体験しうる最もひどい病気は「誰からも必要とされていない」ということだと言っています。肉体を病に冒された人々は、ときにこのような心の痛みも味わうことがあります。肉体の痛みに加えて、孤独感、疎外感が心をさいなむのです。
 孤独感、疎外感が高じてくると、自分の人生の意味に疑問が生まれてきます。なぜ自分だけがこんな目に遭わなければならないのか、神様は自分を見捨てたのかというような思いが心をむしばみ始めるのです。
 今回の研修会では、病者が味わう苦しみを①全世界から見捨てられたような孤独、②耐えがたい痛み、③人生の意味への疑問の3つに要約し、これらに対してキリスト教徒としてのわたしたち一人ひとりに何ができるかを考えてみたいと思います。

3.神様の愛のしるしとして
 病者が味わう孤独感や疎外感に対して、わたしたちキリスト教徒になにができるのでしょう。次の言葉を手がかりに考えてみたいと思います。
「あなた方の中で病気の人は、教会の長老を招いて、主の名によってオリーブ油を塗り、祈ってもらいなさい。信仰に基づく祈りは、病人を救い、主がその人を置きあがらせてくださいます。その人が罪を犯したのであれば、主がゆるしてくださいます。」(ヤコブ5:14-15)
(1)秘跡としての教会
 「教会の長老を招く」というのは、一義的には司祭を呼ぶということですが、教会全体の代表者を招くことで教会との一致を回復するという意味も込められています。ここで司祭は教会全体の代表者として招かれているのです。信徒が病者を訪問する場合にも、同じことが言えると思います。
 第二バチカン公会議は、教会を位階制度や儀式ではなく「神の民」と定義し、「神の民」としての教会が秘跡、すなわち神様の愛の目に見えるしるしだと述べました。つまり、教会が秘跡であるとは、わたしたち一人ひとりが「神様の愛の目に見えるしるし」だということです。
 わたしたちが「教会」として病者のもとを訪れるとき、このことを忘れてはいけないと思います。わたしたちの笑顔、思いやり、共感が神の愛を伝える秘跡なのです。わたしたちの存在そのものが、「神様もわたしたちもあなたを見捨てていません。あなたを愛しています」というメッセージなのです。
(2)喜びの使徒
「イエスを愛する喜びを、いつも心に持っていなさい。そして、その喜びをあなたが出会うすべての人と分かち合いなさい。」(マザー・テレサ
 マザー・テレサは、神の愛を伝えるために一番大切なのはイエスを愛する喜びだと言っています。もしわたしたちの心の中に神様から頂いた喜びがあふれていれば、その喜びは自然に相手に伝わっていくからです。孤独と疎外感で苦しむ病者に喜びをもたらせるかどうかは、わたしたちの信仰にかかっているのです。
「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。」(Ⅰテサロニケ5:16-18)
 病者訪問をする人には、このパウロの言葉を普段から生きることが求められています。
「喜びは目に現れます。話すときにも、歩くときにも現れます。もし人々があなたがたの目の中にいつも幸せが宿っているのを見るなら、その人たちは自分が愛されている神の子だと分かるでしょう。悲しそうな顔をして覚束ない足取りでスラム街に出ていくシスターの姿を想像してみなさい。彼女がいることが、人々にとって何の役に立ちますか。ただ人々を、前よりもっと重い気持ちにするだけです。」(マザー・テレサ
 もしわたしたちが喜んでいないなら、わたしたち自身が苦しみや悲しみに打ちひしがれているなら、病者にそのようなわたしたちの気持ちが伝わってしまいます。口ではどんなに慰めや励ましを語ったとしても、全身から別のメッセージが伝わってしまうのです。それでは、病者訪問の意味がありません。
「あなたと出会ったすべての人が、別れるときには前よりも幸せになっているようにしなさい。」(マザー・テレサ
 わたしたちが訪れた後で、病者たちが前よりもっと幸せになっているようにしたいものです。「バラがなくなっても、その香りはいつまでも残る」と言います。わたしたちが立ち去った後には、いつまでもキリストの香りが漂い続けるようでありたいものです。
(3)祈りの力
「キリストへの愛、キリストのそばにいる喜び、キリストの愛への自己放棄、それらこそわたしたちの祈りなのです。祈りは完全な自己放棄、キリストとの完全な一致以外のなにものでもありません。」(マザー・テレサ)
 ヤコブは、教会の代表者に来てもらって祈ってもらうように勧めています。
 誰かのために祈るとき、わたしたちはその誰かのために自分を神に捧げることになります。愛する誰かのために、自分を神に捧げるのです。そのようにして神と一致したとき、わたしたちは神の愛の水路になります。わたしたちを通して、愛する誰かに向かって神の愛が流れ出すのです。
 病者の枕元でわたしたちが祈るならば、わたしたちのその姿が神の愛の水路になることでしょう。自分のことを心から思ってくれている人がそばにいるということ自体、病者にとって大きな慰めです。
(4)御聖体の力
「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。」(ヨハネ6:54)
 御聖体は、神の愛を余すところなく現す究極の秘跡であり、「秘跡中の秘跡」だと言えます。御聖体についてはまた別の回に詳しい話があると思いますので、ここでは簡単に触れるだけにします。
 何よりも、御聖体の中にはわたしたちを贖うイエス・キリストの命が充満しているということを思い出す必要があります。御聖体には、喜び、力、感謝、平和、生きる意味など、わたしたちが生きるために必要なすべてのものが含まれています。これらは、病者たちが切実に求めてやまないものです。もし司祭や「聖体授与の臨時の奉仕者」が一緒に病者訪問できるときには、ぜひ御聖体を運んでいただきたいと思います。
(4)病者の塗油
 ヤコブの言葉に、「オリーブの油を塗って」とあります。この言葉は、「病者の塗油の秘跡」の始まりと言われています。このしるしと祈りによって教会と一致することで、病者は病苦を耐え抜く力を与えられます。
 病者の塗油には、次の4つの恵みがあります。①病者の霊魂を癒す恵み(罪のゆるしを含む)、②キリストの受難と一致する恵み、③教会の善に寄与する恵み、④死への準備。臨終が近いと思われる病者のためには、「祖国に入る準備の秘跡と呼ばれるゆるしの秘跡、病者の塗油、御聖体の三つの秘跡に与ることができるよう最大限の努力をしたいものです。