病者訪問奉仕者研修会「キリスト教徒としての病者訪問」②

キリスト教徒としての病者訪問 〜マザー・テレサにならって」 後半
4.痛みを共に担う
 肉体の痛みを味わっている病者を前にして、わたしたちに何ができるのでしょうか。マザー・テレサの次の言葉が手がかりになると思います。
「苦しみは、共に担われるとき喜びに変わります。」(マザー・テレサ)
(1)自分の体験から
①呼吸困難
 これまでわたしが味わった肉体的な苦しみの中で、一番恐ろしかったのは呼吸困難です。インドで結核にかかって寝込んでいたときのことでした。ある晩、呼吸がいつものようにできなくなってしまったのです。どんなに息を吸い込もうとしても、肺がふくらんでくれませんでした。あのときの苦しさは、今でも忘れません。
 そのときわたしは、マザー・テレサの男子修道会の修道院の一室で寝ていました。夜中でしたが、苦しさと恐ろしさのあまり思わず叫び声を上げてしまいました。しばらく叫んでいると、神父さんたちが起きてきてくれました。彼らがいろいろ心配してくれ、薬を持ってきたりしてくれているあいだ、わたしはなんとか呼吸困難の苦しみを耐えることができました。
 しかし、夜中だったこともあり、神父さんたちはしばらくすると「お大事に」と言って部屋に戻ってしまいました。彼らがいなくなってしまうと、わたしはまた苦しくてたまらなくなり、叫び始めました。するとまた神父さんたちが戻ってきてくれました。そんなことを数回繰り返すうちに、幸いに呼吸困難は収まりました。
 今から思えば、呼吸困難の苦しみと、「こんなところで一人で死んでゆくのはいやだ」という思いが混じり合って、あの叫び声になったのだと思います。一人で死にたくない、誰かにそばにいてほしい、激しい痛みの中で死に直面したとき、人はそう思うのかもしれません。痛み自体はなくならないにしても、誰かがそばにいることで少なくとも死の恐怖だけはやわらげることができるのではないでしょうか。
②手のぬくもり
 別の機会ですが、日本に戻ってきてまた病気が重くなったことがありました。結核が別の病気を併発し、全身がだるい上に痛みを伴うというひどい状態でした。そのとき、わたしは思いがけない行動をとってしまいました。近くに座っていた母の手を握ったのです。普段、そんなことは決してしたことがありません。しかし、極度の苦しみの中でわたしはそうせずにいられなかったのです。
 手を握っているあいだ、病気の苦しみは耐えられるものになりました。母の手のぬくもりが全身に伝わり、痛みを和らげてくれたようでした。
③誰かがそばにいてくれさえすれば
 これらの体験から言えるのは、病気の痛みは誰かがそばにいてくれればなんとか耐えられるものになるということです。自分の痛みに共感し、その痛みを共に担ってくれる人がいれば、痛みはなくならないにしてもなんとか耐えうるものになるのです。愛のぬくもりが痛みを凌駕し、痛みが喜びに変わっていくことさえありえます。
 病者訪問奉仕では、病者のそばに長時間いてあげることはできないかもしれません。しかし、誰かが本当に自分の痛みを分かってくれ、そばにいてくれるということが感じられれば、一時だけでも痛みは和らぐはずです。
(2)マザー・テレサ自身の痛み
「誰からも求められず、愛されず、気にかけられないまま路上に放置されているわたしの貧しい人たちの肉体的な状況は、わたしの霊的生活の、イエスへの愛の完全な写しです。ですが、このひどい苦しみを何か別のものに変えたいと思ったことはありません。さらに言えば、わたしはイエスが望む限りのあいだ、このままでいたいとさえ望んでいます。」(マザー・テレサ)
 マザー・テレサは、若いころ病苦を味わったことがありませんでしたが、別の痛みを味わっていました。それは「魂の闇」と呼ばれる、神から見捨てられたような孤独の痛みでした。痛みを味わう中で、マザーはその痛みを貧しい人々の心の状態に重ねていくようになりました。路上で死にかけている人たちも自分と同じように神から見捨てられたような苦しみの中にいる、そう思ったときマザーは彼らのために何かをせずにいられませんでした。彼女の活動は、このような深い共感に裏打ちされたものだったのです。
 病者たちは、誰かが自分のことを本当に分かってくれること、自分の感じている痛みを分かってくれることを待っています。マザーはさらに、自分の感じている痛みを十字架上のイエスの痛みとも重ね合わせ、イエスと共にいつまでもこの十字架を担っていきたいとさえ願っていました。

5.苦しみのキリスト教的意味
 最後に、病気に一体どんな意味があるのか、なぜ神は誰かに病苦を与えるのか、そのことについてヨハネ・パウロ2世の書簡『サルヴィフィチ・ドローリス』を手がかりにして考えてみたいと思います。
(1)イエスと共に苦しむ
「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです。」(フィリピ3:10-11)
「むしろ、キリストの苦しみにあずかればあずかるほど喜びなさい。それは、キリストの栄光が現れるときにも、喜びに満ち溢れるためです。」(Ⅰペトロ4:13)
 これらの言葉は、病苦の中にある人々にとって大きな希望となるものです。イエス・キリストを十字架上で一人ぼっちで苦しませておくのはかわいそうだと思い、自分もイエスと共に十字架の苦しみを味わいたい、イエスの苦しみを共に担いたいと願いながら病苦を神に捧げるとき、わたしたちは必ず復活の栄光と喜びにも与ることができるのです。
「キリストは、罪の中に含まれる悪、すなわち『神に背を向ける悪の「全容」を正しくわきまえ』、御父と御子の一致の神的深みを通し、人間的には表現できない方法で、『御父からの別離、御父に見捨てられること、御父なる神から関係を断たれる苦しみ』を受けました。しかし、まさにこの苦しみによって、キリストは贖いを完成されました。」(ヨハネ・パウロ2世
「苦しみはそれ自体として意味を持ちません。キリストと共に苦しまれたとき、初めて意味を持ちます。」(マザー・テレサ)
 キリスト御自身、激しい肉体の痛みの中で神から見捨てられたような苦しみを味わいました。しかし、その苦しみは復活のできごとを通して贖罪という意味を与えられました。キリストの苦しみは、全人類を救うための苦しみだったのです。これは人間の理解を越えた神秘ですが、キリスト共に苦しむとき、わたしたちはそれが事実であることを体験によって悟ることができるでしょう。
(2)全人類のために苦しむ
「人間の苦しみは、キリストの御受難において頂点に達しました。同時に苦しみは新しい次元に入りました。つまり、『苦しみは愛に結びつけられるようになりました』。愛は善をつくり、苦しみによって善を引き出します。ちょうどそれは、世の贖いという最高善が、キリストの十字架から引き出されたということ、しかも絶え間なく、その十字架から最高善が流れ出しているのと同じです。」(ヨハネ・パウロ2世
「苦しみそのものは悪の体験です。しかし、キリストは、苦しみを決定的な善、すなわち永遠の救いという善の最も堅固な基礎とされました。」(ヨハネ・パウロ2世
 キリストによって、苦しみは善の源となりました。わたしたちの理解を越えたしかたで、神は苦しみを善に変えられたのです。
「キリストは、苦しみの理由を抽象的に説明なさいません。かえって、まず『わたしに従ってきなさい』と言われます。来なさい。あなたの苦しみを通して、世界を救う仕事に参加しなさい。わたしの苦しみによって達成されたあの救済の業に。わたしの十字架を通して。」(ヨハネ・パウロ2世
 この神秘を言葉で説明しつくすことはできません。神学者たちが何万冊の書物で説明しようとしても、決して説明しつくすことはできないでしょう。しかし、病者たちはこの神秘を自分自身の体験によって悟ることができます。イエスと共に十字架の苦しみを担うとき、病者たちはそれが全人類を救うための使命に他ならないということを全身で悟るのです。これは、大きな恵みだと思います。イエスと共に苦しまれた苦しみだけが、苦しみの本当の意味、イエスによる救いの本当の意味を教えてくれるのです。
「今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。」(コリント1:24)
「罪のない人々の苦しみは、イエスの苦しみと同じです。イエスはわたしたちのために苦しみました。罪のない人々の苦しみもまた、イエスの苦しみと結びついてわたしたちを贖うのです。それは、『共贖』とさえ言えます。その苦しみは、世界をもっと悪い状態から救うのです。」(マザー・テレサ)
 これらの言葉は、病者の苦しみが彼らに与えられた大いなる使命であることを教えてくれます。イエスと共に苦しみを担うとき、病者たちはイエスと共に全人類を救っているのです。
(3)苦しんでいるすべての人々と共に苦しむ
「苦しみの世界は、それ自体が連帯を持ちます。苦しんでいる人は、似たような苦しみの状態を通して、また理解されることと世話を受けることを通して、お互いが同類になります。特に苦しみの意味を問い続けることによって似たものとなります。」(ヨハネ・パウロ2世)
 病苦の中にある人々は、自分と同じ苦しみを持った人々と連帯することができます。出会うことはなくても、苦しみにおいて病者たちは一つに結ばれることができるのです。自分だけが苦しんでいるわけではない、世の中には自分より大変な状況に置かれた人だっている、そう思って自分以外の人々の苦しみに共感するとき、病苦を耐える力が生まれてくるでしょう。
(4)超越に心を開く
「苦しみは人間の超越性に属するように思えます。ある意味で、人間が自分自身をそこで越えるようにと運命づけられており、そこに神秘的な方法で呼ばれています。」(ヨハネ・パウロ2世)
「この体が重い病にとりつかれ、まったく無能状態に置かれるほど、生活や行動がほとんど不可能であればあるほど、内的な『成熟や霊的偉大さ』があらわになり、健康な人に心を動かす教訓を与えています。」(ヨハネ・パウロ2世
「人間の魂を変貌させる恩寵への道を他の何よりもはっきりと示すのは、苦しみです。」(ヨハネ・パウロ2世

 病苦に限らず、すべての苦しみは恩寵への道だということができます。苦しみはわたしたちの心の周りに何重にも積み重なったエゴの殻を打ち砕き、ありのままの心で神の前に立つことを可能にしてくれるのです。苦しみの中で自分の才能、財産、名誉、権力、健康などにより頼む心が完全に打ち砕かれ、自分には神以外になにも頼れるものがないということを痛感できたとき、神の前にまったく無力な自分を差し出すことができたとき、わたしたちの心に神の恵みがあふれるほど豊かに注がれます。苦しみの中で感じる痛みは、エゴの殻を打ち砕くために下されたハンマーの痛みだと言えるかもしれません。
 キリスト教徒にとってすべての苦しみは恵みだといえるでしょう。苦しみの中で傲慢な心を打ち砕かれたとき、わたしたちは神の前にひざまずくことができるのです。
(5)受けた恵みを分かち合う
「苦しんでいるあなた方すべてに、わたしたちを助けて下さるようにお願いします。わたしたちは、弱い者であるあなたがたのその弱さで、教会と人類のために、『力の源となってくださるように』お願いしたいのです。」(ヨハネ・パウロ2世
「御自分の苦しみの一部を与えるほどあなたを愛して下さる主によって選ばれたのですから、あなたは幸せに違いありません。勇気を出して、元気でいてください。そして、わたしたちが多くの人々の魂を主のもとに連れていくことができるように、多くのものを捧げてください。」(マザー・テレサ
 キリスト教の伝統の中には、病者の苦しみが健康な人々の活動の力の源泉になるという信仰があります。マザー・テレサは、自分たちの活動を支えてくれる病者の会を組織し、「神の愛の宣教者会」に属するすべてのシスターが一人の病者と文通できるようなシステムを作り上げました。
 病苦を通してあふれ出した神の恵みが、健康な人々にも及び、この世界全体を幸せにしていくということでしょう。この信仰は、多くの病者にとって希望になると思います。

(6)人々の心に愛を呼び起こす
「苦しみは、人間の人格の中で愛を誘発するために存在するということ、つまりそれぞれの『自己』を特に苦しんでいる人々のために、まったく無欲で与え尽くすために存在しているということです。苦しみの世界は、愛という他の世界への絶え間ない呼びかけでもあります。」(ヨハネ・パウロ2世
 ヨハネ・パウロ2世は、「よきサマリア人」の譬えを例にとって、苦しんでいる弱者の存在は人々を愛の実践へと招く役割を担っていると言います。病気や怪我で苦しんでいる人を見かけたとき、わたしたちは愛の実践へと誘われていくのです。
「その家に着いたとき、わたしはその家の子どもの1人が、見たこともないほど重い障害を負っており、ひどいハンディキャップがあることを知りました。…その家族には、すばらしい喜びの精神がありました。愛し方を教えてくれる人がいたからです。」(マザー・テレサ
 ベネズエラである家庭を訪問したとき、マザーはこの事実に気がつきました。重い障害を負った子どものいる家庭に少しの暗さもなく、むしろ喜びが溢れているのを見たとき、マザーはその子どもこそこの家族に与えられた恵みなのだと悟ったのです。無力な子どもの存在が、家族に愛し合うことの喜びを教えてくれたのです。
6.まとめ
 キリスト教徒として、病気で苦しんでいる人たちのために何ができるのかを考えてきました。まとめると次のようになります。
(1)孤独や疎外感
神様の愛を全身で受け止め、喜びにあふれているならば、わたしたちの存在自体が「神様の愛の目に見えるしるし」になります。その喜びが病者に伝わるとき、彼らの孤独や疎外感は消えます。
(2)痛み
痛みそのものは消えないにしても、わたしたちが共にいることでその痛みは耐えうるものになるでしょう。
(3)意味への疑問
病苦には、人間の理解を越えた意味があります。その意味は、イエスと共に苦しみを担ったときに明らかになるでしょう。

 キリスト教徒として病者を訪問するとき、何よりも大切なのはイエスの愛を病者に運ぶということです。そのためには、まずわたしたち自身が祈りの中で神のイエスの愛に満たされている必要があります。すべての病者訪問を、祈りから始めたいものです。

《参考文献》
1.ヨハネ・パウロ2世教皇書簡『サルヴィフィチ・ドローリス』(サンパウロ刊)
2.『カトリック教会のカテキズム』(カトリック中央協議会刊)⇒特に「病者の塗油」の項。
3.『第二バチカン公会議公文書全集』(サンパウロ刊)
4. Mother Teresa, “LOVE: A FRUITS ALWAYS IN SEASON”, Ignatius Press.
5. Brian Kolodiejchuk M.C., “MOTHER TERESA: COME BE MY LIGHT”, Doubleday.
6.『マザー・テレサ書簡集』(ドン・ボスコ社刊)
7.『愛する子どもたちへ マザー・テレサの遺言』(ドン・ボスコ社刊)
8.『わたしはあなたを忘れない マザー・テレサのこころ』(ドン・ボスコ社刊)
9.『聖なるものとなりなさい マザー・テレサの生き方』(ドン・ボスコ社刊)