教会報記事「ともに捧げるミサ」


 カトリック六甲教会教会報8月号の巻頭言として書いた記事です。
「ともに捧げるミサ」
 早いもので、昨年9月に叙階されてから1年になろうとしている。近頃は、ミサで間違うこともだいぶ少なくなってきた。落ち着いて自分自身のミサの立て方を振り返ってみると、まだまだ考えなければいけないところがたくさんあるように思う。
 近頃、特に心がけているのは「わたしがやる」という気持ちをなくして、すべてを神様に委ねきるということだ。最初からそう心がけてはいたのだが、やっているうちにどうしてもみんなを元気づけようとか、いい話しをしようというような気持が出てきて肩に力が入ってしまうことが多かった。自分を捧げようという気持ちさえ、行きすぎて自己主張のようになってしまうことがあった。みすぼらしい自分の姿を、技術でごまかそうとしたこともあった。そんなことでは肝心のキリストの影が薄くなることに、近頃ようやく気付き始めたのだ。
 ミサの中で、司祭はキリストの目に見える姿として奉仕する。わたしは消えて、わたしの向こう側にキリストがおられるのが透けて見えるようでなければならないと思う。司祭の声やしぐさは、会衆と「神の国」をつなぐ透明な媒体であるべきだ。みすぼらしいわたしの姿を通して、ただキリストの力だけが現れるようにと祈らずにいられない。
 ミサを立てるときにもう一つ大切なのは、会衆に心を開くことだと思う。ミサのあいだ、会衆からとても大きな力が流れ出している。真剣に祈る姿や、真心のこもった歌声などを通して、会衆からもキリストの力が流れ出しているのだ。司祭が説教をしたり奉献文を唱えたりしているとき、会衆は何もしていないかのようにも見えるが、実はそんなことはない。真剣に聴いたり、うなずいたり、あるいは一心不乱に祈ったりしている姿から大きな力が発せられている。その力を受け止め、その力に身を委ねながら、司祭はミサを進めるべきだと思う。自分のことやミサの手順のことばかり考えて、会衆に心を閉ざしてしまうことがないようにしたい。
 こうして、司祭が発するキリストの力と会衆が発するキリストの力が響き合うとき、ミサが作り上げられていく。司祭と会衆が自分を神に捧げてともに祈ることで、キリストの力が聖堂を満たし、ミサを作り上げていくのだ。一回、一回のミサに、自分の全てを捧げていきたい。
※写真の解説…昨年、9月5日に行われた司祭叙階式の一コマ。