バイブル・エッセイ(92)命のパン


 群衆は、イエスも弟子たちもそこにいないと知ると、自分たちもそれらの小舟に乗り、イエスを捜し求めてカファルナウムに来た。そして、湖の向こう岸でイエスを見つけると、「ラビ、いつ、ここにおいでになったのですか」と言った。
 イエスは答えて言われた。「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である。父である神が、人の子を認証されたからである。」
 そこで彼らが、「神の業を行うためには、何をしたらよいでしょうか」と言うと、イエスは答えて言われた。「神がお遣わしになった者を信じること、それが神の業である。」そこで、彼らは言った。「それでは、わたしたちが見てあなたを信じることができるように、どんなしるしを行ってくださいますか。どのようなことをしてくださいますか。わたしたちの先祖は、荒れ野でマンナを食べました。『天からのパンを彼らに与えて食べさせた』と書いてあるとおりです。」
 すると、イエスは言われた。「はっきり言っておく。モーセが天からのパンをあなたがたに与えたのではなく、わたしの父が天からのまことのパンをお与えになる。神のパンは、天から降って来て、世に命を与えるものである。」そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。
(ヨハネ6:24-35)
 わたしたちの心の奥底に、一つの飢えがあると思います。それは、誰かから受け入れたい、必要とされたい、それによって生きる意味を感じたいという飢え、一言でいえば「誰かから愛されたい」という飢えです。
 この飢えは、神の愛によって満たされるために与えられたものですが、わたしたちは別のもので満たそうとしがちです。きらびやかな服、大きな車などを持って人から注目されること、有名になって人から尊敬されること、権力を握って人を屈服させることなどによって、愛への飢えを満たそうとするのです。
 しかしこれらのものは、わたしたちの飢えを一時的にまぎらすことができたとしても、完全に満たしてはくれません。これらのものは過ぎ去っていくからです。富も名誉も権力も、移ろいやすい人の世の流れの中ですぐに消え去っていきます。それらをいつまでも自分のものにしておきたいと思えば、その執着から多くの苦しみが生まれてきます。根源的な愛への飢えは、これら「地上のパン」によって満たされることはないのです。
 わたしたちの飢えを完全に満たしてくださるのは、「命のパン」であるイエス・キリストだけです。イエスの御言葉で心を満たし、御聖体を通してイエスの愛を全身で受けるとき、そのときわたしたちの愛への飢えは完全に癒されます。キリストの愛は、御言葉と御聖体のうちに心と体の隅々にまで行きわたり、すべての飢えを喜びと平和で満たしていくのです。
 これから御聖体をいただく前に、もしわたしたちの心の中に「地上のパン」への執着があるならば、それを捧げものとして神にお捧げしましょう。「地上のパン」を手放し、空っぽの自分を神の前に差し出すとき、神はわたしたちを必ず「命のパン」で満たしてくださいます。
※写真の解説…北海道、富良野の小麦畑。