カルカッタ報告(11)8月25日ロレットの学校①


 高架橋を渡ると、高い壁に囲まれたロレットの敷地が見えてきた。守衛さんに挨拶して、大きな鉄の門から中に入った。門を入ると、周辺の排気ガスや土埃、ゴミなどにまみれた街並みとはまるで別世界のような、緑にあふれた清らかな世界が広がっていた。15年前と同じだが、このコントラストにはいつも驚かされる。
 門を入って並木道を進んでいくと、正面に大きな白い校舎が見えてきた。比較的新しい建物だ。子どもたちは授業中のようで、机を並べて先生の話に聞き入っている姿が窓ガラス越しに見える。その建物の左手に、かなり古びた灰色の建物がある。マザーが17年間暮らしたロレット修道会の修道院だ。まだ建てなおされることもなく、当時のままの姿を残している。
 マザーは、この学校の建物について手紙の中で1度言及したことがある。カルカッタの街の中を歩き回って住む部屋を探しているときに、「ロレットの宮殿のような建物」が脳裏をよぎり、貧しい人たちのために働くという決意を捨てさえすればあそこに戻れるという誘惑にかられたというのだ。宮殿まではいかないにしても、スラム街の質素な家屋に比べたらとても豪壮な建築物と言っていいだろう。
 この学校は、その豪華な外観から金持ちのための学校として紹介されることがある。だが、それは必ずしも正確な紹介ではない。この学校は確かにカルカッタの名門校の一つではあるが、スラム街の子どもたちのためにも開かれているからだ。現在はどうかしらないが、少なくともマザーが働いていたころはそうだった。比較的裕福な家庭の子どもたちのための英語による教育と、スラムの子どもたちのためのベンガル語による教育が、同じ敷地の中で行われていたのだ。
 マザーは、そのうちのベンガル語部門を長いあいだ担当していた。ベンガル語がとても上手なので、「ベンガリテレサ」という仇名までついていたそうだ。マザーがこの学校で働いていた1930年代から40年代は、第二次世界大戦をはさんで全世界が激動した時代だった。インドも、大英帝国からの分離独立、ヒンドゥー教徒イスラム教徒の血で血を洗う抗争の中で、激しく揺れ動いた。その中で、時代の波に翻弄されながらマザーは教師として貧しい子どもたちのために働き続けたのだ。

※写真の解説…ロレットの学校。Loretto Convent School、ないしは単にLoretto Schoolと呼ばれている。