カルカッタ報告(12)8月25日ロレットの学校②


 歩き疲れたわたしたちは、しばらくこの学校の中で休憩することにした。校舎の入口のあたりにちょうどいい階段があったので、わたしはそこに腰掛けて休むことにした。
 思えばマザーが「マザー・テレサ」と呼ばれるようになったのも、この学校でのことだ。1937年、ロレット修道会での終生誓願を立てたときから、それまで「シスター・テレサ」と呼ばれていた彼女は「マザー・テレサ」と呼ばれるようになった。当時の修道院の習慣では、終生誓願(正確には盛式誓願)を立てた修道女はみな「マザー」という称号で呼ばれていたからだ。
 マザーの当時の様子について、何人かの同僚のシスターが証言している。第二次世界大戦が激化していき、多くのシスターたちが帰国していくなかで、マザーは学校運営の責任を担って懸命に働いていたという。そのようなマザーの姿を見て、当時のマザーほど徹底的に自分のない人を見たことがないと語るかつての同僚のシスターさえいる。一方で、当時のマザーを知るある司祭は、それほど目立たない不器用な修道女だったとも証言している。
 いずれにしても、マザーがどれほど霊的な深みと人間的な魅力を兼ね備えた人だったかは、マザーがスラムに出たあとこの学校の生徒たちが何人もマザーの下に集まり、マザーと同じ生活を始めたことからはっきりわかる。これほど恵まれた環境の中で学んでいた十代後半の女の子たちが、快適な生活や将来の結婚の可能性などをすべて捨て去って、学校を去った無名の修道女と同じ生活を始めようと決心するなんてちょっと信じがたいほどのことだ。彼女たちにそれほど重大な決断をさせるほどの何かが、マザーにあったということだろう。
 まるでイエスに出会ったために全てを捨て去り、イエスの後に従って歩み始めることを選んだ弟子たちのように、彼女たちはマザーにどこまでもついていくことを選んだのだ。その気持ちが、15年前に日本での生活を捨ててマザーのもとで働くことを選んだわたしには少し分かる気がする。マザーは、確かにそんな力を持った人だった。
 校舎の階段に腰掛け、美しい校庭の芝生を眺めながらそんなことを考えているうちに、だんだん空の雲行きが怪しくなってきた。他のメンバーたちはどこに行ったのかと思って探すと、なんと校舎の中に入って子どもたちと遊んでいる。珍しい外国人が校内を歩いているのを見つけた先生が、彼らを子どもたちに紹介したらしい。思いがけずいい交流ができたと、メンバーたちはみんな大喜びだった。子どもたちとの別れを惜しみつつ、わたしたちはロレットの学校に隣接するスラム街、モティジルに向かった。

※写真の解説…1枚目、ロレットの校舎。2枚目、ロレットの学校とそれに隣接するスラム街、モティジル。高い壁で隔てられている。