このエッセイは9月27日「世界難民移住移動者の日」のミサでの説教に基づいています。
「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。
もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。」(マルコ9:42-48)
今日「世界難民移住者の日」の朝、この福音を読んでいたときに幼い頃の一つの記憶が心によみがえってきました。小学生のときの思い出です。
わたしが小学生だった1980年代、世界中で次々と大量の難民が発生していました。エチオピアの大飢饉などがあった頃です。テレビに映し出される難民達の姿を見て、わたしは幼心に強い悲しみと怒りを感じました。やせ細った身体のお腹だけが栄養失調で突き出した子どもたちの姿、彼らの目や口にはたくさんのハエが止まっていました。今にも息絶えようとしている小さな子どもの傍らでなすすべもなく立ち尽くす母親、その顔にはもはや何の表情もありませんでした。そんな光景を見るたびにわたしは、「大人たちは一体何をしているのだろう、なぜ彼らに食べ物を上げないのだろう」と強く感じざるをえなかったのです。それは「つまずき」と言ってもいいことだったかもしれません。
今、大人になって自分自身の姿を振り返ったとき、難民の人々に対するわたしの態度は子どもたちの目にどう見えているのだろうかと自問せざるをえません。わたしたちの態度は、子どもたちにとってつまずきになってはいないでしょうか。
目の前に倒れている人の「助けてくれ」といううめき声を聞きながら、その声を無視してその場を立ち去るわたしたちの姿をもし子どもたちが見れば、子どもたちはきっとつまずくでしょう。
はるか遠くにいる難民たちの声など聞こえないという人もいるかもしれません。しかし、新聞に載る「アフリカで飢饉発生、1万人が飢餓に直面」などという記事を目にしたとき、一瞬だけテレビのニュースに写る難民たちの姿を目にしたとき、もしわたしたちに聞く耳があればわたしたちは彼らの叫び声を聞きとることができるはずです。「1万人が飢餓に直面」という1行の文字の向こう側から、1万人の人々が「助けてくれ。お腹が空いて死にそうだ」と叫んでいるのです。
まずこの叫びを聞きとれる耳を持ちたいものです。そして、叫びに応えて、わたしたちの身近から何かを始めていきたいものです。そのとき、わたしたちは初めて子どもたちに向かって神の愛を真実に語ることができるようになるでしょう。わたしたちの心を照らし、耳を開く聖霊の恵みを願いながら、ともにこのミサをささげていきましょう。
※写真の解説…ケニアとスーダンの国境地帯にあるカクマ難民キャンプにて。スーダンからの難民の子どもたち。