バイブル・エッセイ(99)この人のそばに

 このエッセイは8月25日、マザー・テレサの墓前で行ったミサでの説教に基づいています。
 エスは、ガリラヤ湖のほとりを歩いておられたとき、二人の兄弟、ペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレが、湖で網を打っているのを御覧になった。彼らは漁師だった。イエスは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われた。二人はすぐに網を捨てて従った。
そこから進んで、別の二人の兄弟、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、父親のゼベダイと一緒に、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、彼らをお呼びになった。この二人もすぐに、舟と父親とを残してイエスに従った。(マタイ4:18-22)

  イエスと出会った人々が、すべてを捨ててイエスについていきます。これはとても不思議なことです。彼らはイエスが救い主であることも、十字架も復活もまだ知らなかったのに、イエスにすべてを賭けたのです。一体なぜそんなことができたのでしょう。
 わたしは15年前にこの建物の2階でマザー・テレサと初めて出会いました。そのときのことを思い出すと、弟子たちの気持ちが少しわかるような気がします。事前に何の連絡もせず、突然訪ねてきたわたしを温かく迎えてくれたマザー。彼女の前に出たとき、わたしはうれしくてうれしくて仕方がありませんでした。心の奥底から喜びがどんどんこみあげてきて、もうじっとしていられないくらいでした。マザーの皺だらけの顔に浮かんだ笑顔と手のぬくもりを感じながら、わたしはマザーから受け入れられている、愛されているということをはっきりと感じました。よく、マザーと出会った人は自分こそがマザーから一番愛されていると感じた言われますが、わたしもそんな気持ちでした。
 そんなマザーとの出会いを体験したわたしは、そのあと1度日本に帰ったものの、すぐにまたカルカッタに戻りたくて仕方がなくなりました。「マザーのそばにいたい。マザーのそばにいる喜びには他の何ものにも代えがたい。」そう思ったわたしは、わたしはこれまで大事にしてきた快適な生活、学歴、世間の評価などをすべて日本に置いて、マザーのもとへ戻ることにしました。それらのものが生む喜びは、マザーのそばにいる喜びに比べたら取るに足りないもののように思えたのです。
 イエスとの出会いを体験した弟子たちも、きっとあのときのわたしと同じような気持ちだったのではないでしょうか。イエスの前に立ち、あふれだすイエスの愛に包みこまれる体験をした弟子たちは、たぶん「もうこの人のそばを離れたくない」、「この人のそばにいる喜びに比べたら、他の喜びなどどうでもいい」と感じたのではないかと思います。15年前、わたしはマザーが誰であるのかほとんど分かっていませんでしたが、直感的にマザーのもとに戻りました。弟子たちもイエスが誰であるのかわかっていませんでしたが、それでもイエスはすべてを賭けるに値する人だと直感的に感じ取り、すべてを捨てて歩き始めたのだろうと思います。全身で受け止めた愛の実感だけが、彼らを突き動かしたのです。
 信仰の歩みというものは、このようにして始まるのではないでしょうか。マザーの後について歩んできたこれまでの道のりの中で、わたしはマザーの前にイエス・キリストが立っているのを少しずつ感じられるようになってきました。今では、マザーの先を進んでいくイエスの後を、マザーと一緒に追いかけながら歩いているような気がします。
 マザーの墓前に立つと、マザーがわたしたちの隣にいてくれるのをはっきりと感じます。イエスのあとをしっかり追いかけながら、いつまでもマザーと共にこの信仰の道を歩み続けたいと思います。
※写真の解説…マザーの墓前でのミサの様子。