カルカッタ報告(27)8月26日「死を待つ人の家」①


 バスがスピードをゆるめ、車掌が大声で「カリガー、カリガー」と叫んだ。カーリー・ガートに着いたという合図だ。この合図は、昔とまったく変わっていない。カーリー・ガートを現地の人が早口で言うと「カリガー」と聞こえるのだ。
 バスを降りると、大通り沿いの見覚えのない場所だった。昔使っていた204系統のパスとはバス停の位置がどうも違うらしい。こうなると、もう一緒に降りたボランティアたちの後についていくしかない。歩いても歩いても、なかなか見覚えのある場所に出なかった。複雑に入り組んだカーリー・ガート周辺の道についての記憶は、もうすっかり薄れてしまったようだ。
 少し不安になり始めたころ、見覚えのある風景に出くわした。ヒンドゥー教の神様の像や絵、宗教的な意匠のネックレスなどを売る露店が道端に並び始めたのだ。カーリー・ガートの参拝客のために土産物を売る露店だ。露店を横に見ながらさらに歩いて行くと、やや湾曲した三角形の屋根が左前方に見えてきた。カーリー寺院の屋根に間違いない。もう少し歩けば、左手に「死を待つ人の家」が現れるはずだ。
 1953年、マザーはカーリー寺院の隣に「死を待つ人の家」を開設した。道端で倒れて死んでいく人たちの最後を看取りたい、誰にも見向きもされないまま孤独の中で死んでいく人をなくしたいという一心から始められた施設だった。宗教に頓着しない共産党政権の特別な計らいでヒンドゥー教寺院の巡礼者宿泊施設として建てられたこの建物を借りられたところまではよかったが、マザーはすぐに大きな反対運動に直面することになった。ヒンドゥー教の聖地に対するキリスト教の侵略と思われたのだ。
 連日のように群衆が家の前に押し寄せ、「キリスト教徒は出ていけ」と叫んだ。そんなある日、群衆がマザーを追い出そうと警察の署長を連れてきた。マザーはその署長に「出て行くのはいつでも出ていきますが、まずわたしたちのしていることを見てください」と言った。署長はマザーの後について中に入り、シスターたちが献身的に患者さんたちを看病している様子を黙って見ていた。しばらくして署長は黙ったまま外に出て、群衆に向かって語りかけた。「マザーを追い出してもいいが、一つだけ条件があります。マザーの代わりにあなたたちの母親や妹をつれてきて、ここで働かせてください。」署長がそう言うと、群衆は黙って散って行ったという。マザーは、「死を待つ人の家」に来るたびにわたしたちボランティアにこの話をうれしそうにしてくれた。マザーにとって、本当にうれしい出来事だったのだろう。
 道の端にびっしりと立ち並んだ露店が途切れたところで、ついに「死を待つ人の家」の前に出た。あまりの懐かしさに、わたしは玄関の前で立ち尽くしてしまった。昔の思い出が、次々と押し寄せるように脳裏をよぎった。少し待っていれば、昔馴染みのボランティアたちが中から出てきそうな気さえした。思わず目頭が熱くなり、なかなか玄関をくぐることができなかった。一緒に来たボランティアたちは、そんなわたしを置いて次々と中に入って行った。
 気持ちを落ち着けて中に入ると、中の様子は昔とまったく変わっていなかった。青いビニールのシートがかかった簡易ベッドが4列に並んで奥まで続き、その1つひとつに患者さんたちが寝たり腰かけたりしている。その間を、ボランティアやブラザー、シスターたちが忙しく行き来していた。わたしも、荷物置き場にバッグを置き、エプロンをつけて早速その中に混じることにした。
 エプロンを着け終わったところで、ベテランらしいボランティアから声をかけられた。浴室で人手が足りないから手伝ってくれというのだ。病棟の奥にある浴室に行くと、体格のいい2人の男性ボランティアが患者さんたちの体を次々と洗っているところだった。ボランティアの1人はターバンを巻いたインド人で、もう1人は韓国人のようだった。しばらく彼らのすることを見ていたが、入浴の手順は昔と同じようだったのでわたしも彼らに交じって患者さんたちの体を洗い始めることにした。
 次々と運ばれてくる患者さんの体を、石鹸を着けながらスポンジで隅々まで洗っていく。丁寧に、しかもすばやく洗うことが要求される難しい仕事だ。久しぶりで最初はうまくできなかったが、やっているうちに少しずつ要領を思い出し、スムーズに洗えるようになった。洗い終えて冷たい水をかけるとき、どの患者さんもいやな顔をする。これも昔と同じだ。子どもの頃から水浴びに慣れている彼らでも、病気で弱った体に水をかけられるのは苦痛なのだろう。だが、給湯設備などないこの家では我慢してもらう以外にない。
※写真の解説…カーリー寺院の近くの露店。