カルカッタ報告(31)8月26日Sr.マーガレット・メリー③


Sr.マーガレット・メリー、闘病の末「永遠の故郷」に帰る
エスの渇きを癒すため、マザー・テレサと共に福音宣教の使命を生きた修道女
(コルカタ・The Herald紙、6月20日より抄訳)
 「神の愛の宣教者会」の重鎮であり、草創期からの修道女であったSr.マーガレット・メリーの逝去を悼む葬儀ミサが、6月13日マザー・ハウスで行われた。マザー・ハウス1階の聖堂には、たくさんの同会修道女や、信者たち、生前彼女と親交のあった人々などが詰めかけた。バングラデシュからやって来た彼女の2人の姉妹や、コルカタなどから集まった近親たちの姿も見られた。
 同修道会のノエル神父が、約12人の司祭たちと共に葬儀ミサを司式した。同修道会総長のSr.ニルマラは、Sr.マーガレット・メリーの生涯と、教会および同修道会で彼女が果たした使命について簡潔に語った。
 1950年6月1日、活力に満ち、たくさんの夢を持った17歳の若き女性レジナ・ゴメスは、始まったばかりの小さな修道会である「神の愛の宣教者会」に参加するため、バングラデシュから船でコルカタにやってきた。マザー・テレサが手塩にかけて育てた最初の修道女たちの中で、彼女は12番目に同会に加わった修道女となった。イエスの聖心に捧げられた月である6月、彼女はマーガレット・メリーという修道名を与えられた。同時に彼女は、イエスの聖心が示された相手である人類全体に愛を伝えるという使命を負うことになった。こうして、Sr.マーガレット・メリーは、イエスへの愛に心を燃やしながら修道女としての道を歩み始めたのだった。
 1931年10月28日、バングラデシュダッカで生まれた同修道女は、4人の兄弟と、2人の姉妹に囲まれて育った。その中の1人は、現在修道者になっている。バングラデシュから来た2人の姉妹は、長引く闘病生活の中で苦しみにあえぐ同修道女と共に、死に至るまでの日々を過ごした。同会の初期から晩年に至るまで、彼女は幼子のような単純さとマザー・テレサの愛と祈りへの信頼を持ちながら、77歳に至るまで「赤子のような歩み」を続けた。彼女はマザー・テレサから、イエスと手をつなぎながら歩んでいくための方法を、ゆっくりと、しかし確実に学んだ。そのようにして、十字架に付けられたイエスの足跡をたどりながら歩くすべを身につけていったのである。
 修練者のとき、同修道女はランチにある聖家族病院に入院した。そのとき、マザー・テレサは彼女に次のように書き送った。
「イエスの聖心を見上げ続けなさい。自分が結核かどうかなどと心配する必要はありません。あなたはイエスのものであり、あなたの病はイエスからあなたへの贈り物なのです。あなたはまだ若いから、美しい人生があなたを待っているのにと思うでしょう。しかし、イエスがあなたのために選んだ道こそがあなたにとって最もよい道なのです。だから、微笑みなさい。あなたを打つ手に微笑みかけなさい。あなたを釘で打とうとするその手に口づけしなさい。子羊のようになって、すべての人に微笑みかけなさい。」
 Sr.マーガレット・メリーは、体に苦しみを抱えていたにも拘らず、微笑む才能を持っていた。彼女は、自分の苦しみのすべてを美しい微笑みで覆い隠していた。彼女はたくさんの自然な才能と超自然的な資質を持っていた。そのことに気づいたマザー・テレサは、成長期の修道会の中で多くの責任を持つようにと彼女を励ました。マザーが彼女を愛したように、すべてにおいて彼女はイエスから愛された。イエスの愛は、神の愛のメッセージを全人類に伝えることを目的とした同修道会のために、力の限り奉仕することを可能にした。
 1955年、彼女は志願者の世話をする責任者となり、1961年には終世誓願前の修道女たちの世話をする責任者となった。その後、ランチ、プレム・ダン、シシュ・バワン、マザー・ハウスなどの院長を歴任した。また彼女は、マザー・テレサと共にバングラデシュで最初の同会修道院ダッカに開き、バングラデシュ戦争の最中である1971-1972年、同修道院の院長と地域責任者を務めた。デリーやムンバイで地域責任者を務めたこともあるし、同修道会の総長顧問を務めたこともある。彼女はこの他に、養子縁組の手続きを管理し、また1989年から死に至るまで修道女養成部門に所属していた。
 同修道女に与えられた多くの資質は、彼女の働きの中で神の愛と現存を人々に示していた。彼女は修道女だけを愛したのではなく、労働者や少女たちも愛した。彼女は彼らを訓練し、仕事を通して彼らに尊厳を取り戻した。彼女の親切で丁寧な言葉は、人々を力づけ、彼らを神のブドウ畑のよい働き手にした。彼女は子どもたちも深く愛していた。1960年に彼女はデリーで、同修道会にとって初めての「養子縁組センター」を開設した。この使命はコルカタでも行われた。マザーのスローガンは、「養子縁組で中絶と戦おう」ということだった。Sr.マーガレット・メリーは、たくさんの子どもたちの命を救うこの分野での先駆けでもあった。養子として海外に出た子どもたちは、帰国するたびごとに彼女に会いたがっていたそうだ。彼女も、その子どもたちを自分の子どものように扱っていた。彼女は、子どもたちを温かく迎え入れた上で、生活を整え、自分の居場所を見つけるよう彼らを励ますことができた。
 ノエル神父は、説教の中で次のように語った。
 「手紙を通して、彼女は多くの困難に直面しながら発展していった草創期の『神の愛の宣教者会』の様子をわたしたちに伝えてくれました。彼女たちは、次のパウロの言葉を生きていました。『わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。』彼女の生涯は、次の世代の修道女たちにとって模範となるでしょう。」
 「わたしたちはSr.マーガレット・メリーの生涯から何を学ぶことができるでしょうか。それは、もしわたしたちがイエスを愛するならば、何ものもわたしたちをイエスから切り離すことができないということです。」
 「マザー・テレサの言葉を借りるならば、死はわたしたちに、わたしたちが向かっていく目的地がどこなのかを教えてくれます。わたしたちはこの地上で永遠に生き続けるわけではないのです。わたしたちは、この地上を旅する巡礼者なのです。わたしに与えられた才能や賜物は、ただ神の栄光のためにあるのです。」
 Sr.マーガレット・メリーは、聖者のような生涯を生きた。彼女の神への自己奉献は完全なものだった。マザー・テレサが貧しい人々、とりわけその中でも最も貧しい人々への奉仕を通して神を愛する様子を見ながら、彼女は自分の召し出しを育てていったのだ。彼女はマザー・テレサの次の言葉を、自分の修道生活の中で実現したと言える。
「最後の時に、わたしたちは自分がしたよい行いの数や、この地上で得た資格などによって裁かれるのではありません。わたしたちは、自分が行ったことにどれだけの愛を込めたかによって裁かれるのです。」
 Sr.マーガレット・メリーに代わって、同修道会は生前彼女と親交があった人たち、彼女の家族や友人たち、グプタ氏やウッドワード氏を含む医師たち、ドン神父をはじめとするは司祭たち、友人だったチャールズ・メンディーズ氏など、名前を挙げきれないほどの人たちに感謝を捧げた。
 修道女たちからの最後の別れの言葉は次のようなものだった。「親愛なるSr.マーガレット・メリー、わたしたちは本当にあなたを愛しています。そして、あなたが存在のすべてを通してイエスと教会のためにしてくれたこと、マザーとわたしたちの修道会のためにしてくれたこと、貧しい人たちのためにしてくれたこと、そして何よりもわたしたちと共にいて、わたしたちのためにしてくれたことを感謝します。帰天の数日前だけでもわたしたちのもとに帰ってきて、わたしたちと微笑みを交わし、共に祈り、共に苦しみ、イエスの聖心の中で一つになれたことを感謝します。わたしたちと、バングラデシュとここにいるあなたの家族、親戚、友人、そしてすべての人の祈りを執り成し、わたしたちすべてをイエスの聖心の深みへと導いてください。再び出会う日まで、わたしたちは思いと祈りの中であなたを記憶し、あなたの愛と共に生きていきます。」
 Sr.マーガレット・メリーはイエスと一対一で会いたいという強い望みのあまり、6月13日午前4時25分、起床のベルが鳴る15分前に修道女たちのもとから天へと旅立った。彼女の最後を看取った一人の修道女は、次のように語った。
 「マザー・ハウスに戻ってきてから、Sr.マーガレット・メリーは喉に管が通されていたので話すことができませんでした。彼女はとても苦しんでいました。スティーブ神父が病者の塗油を授けたあと、御聖体を彼女の近くにかざすと、彼女はみんなに、これまでで最も美しい微笑みを見せました。故郷に帰れるという喜びを人々に伝え、苦しみを横に押しのけて、彼女は決して忘れることができないほどの喜びと平和をわたしたち修道女にもたらしたのです。」
※写真の解説…マザー・ハウスの渡り廊下から中庭を見下ろしているSr.マーガレット・メリー。当時64歳。