マザー・テレサに学ぶキリスト教(12)イエスとは誰か④〜貧しい人々の友

第12回イエスとは誰か④〜貧しい人々の友
Ⅳ.貧しい人々の友
 貧しい人々や重い病を患った人々のもとを訪れ、神の愛を説いたマザー・テレサの姿は、そのままイエス・キリストの姿を映し出しています。イエスは、マザーと同じように貧しい人々の友だったのです。今回は、「貧しい人々の友」であるイエス・キリストについてお話ししたいと思います。

1. 神による派遣
 神は、イエスをなぜ貧しい人々のもとに派遣したのでしょうか。それは、神は助けを求めて叫ぶ貧しい人々を放っておくことができなかったからです。神がそのような方であることは、聖書の記述にはっきりと現れています。
(1)出エジプト3:7-9
「主は言われた。『わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。』」
 神がモーセに言われたこの言葉は、神がどのような方であるかをはっきりわたしたちに教えてくれます。神は貧しさの中で苦しむ人々の叫び声を聞き、その痛みを知るとき、彼らを救いださずにはいられない方なのです。
(2)イザヤ61:1
 「主はわたしに油を注ぎ主なる神の霊がわたしをとらえた。わたしを遣わして貧しい人に良い知らせを伝えさせるために。打ち砕かれた心を包み、捕らわれ人には自由を、つながれている人には解放を告知させるために。」
 神は目に見える形で御自身の愛を表すため、助けを求めて叫ぶ貧しい人々のもとへ預言者たちを派遣しました。彼らはそのつど貧しい人々に愛と自由、解放を告げ知らせましたが、そのような告知の完成として「神の子」イエス・キリストがこの地上に遣わされたのです。イエス自身、マタイ11:5でイザヤのこの言葉を引用しています。
(3)ルカ1:51-53
 「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返されます。」
 マリアのこの言葉は、神が富んだ者の傲慢を打ち砕き、貧しい人々の叫びに応える方であるというユダヤ教徒たちの確信を示しています。旧約聖書に現れる神は、そのような方なのです。
(4)ルカ2:8-11
「その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。天使は言った。『恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。』」
 貧しい人々の叫びを聞かれる神は、当時最も貧しい境遇に置かれていた羊飼いたちにまっさきにイエスの誕生を告げ知らせました。神は、天使を通して羊飼いたちに「あなたがたのために救い主がお生まれになる」とまで言ってくださったのです。貧しい人々をなんとか救いたいという神の思いが、この言葉からあふれ出しています。

2. イエス自身の貧しさ
 マザーは、イエス自身の貧しさについて次のように語っています。
「馬舟の中に、エジプトへの逃避行に、ナザレでの隠された生活に、人々から理解されない無力さの中に、弟子たちの裏切りの中に、ユダヤ人たちの憎しみの中に、そして受難におけるすべての苦しみと死の中に、イエスの貧しさが現れています。」 
 貧しい人々を救うために来られたイエスは、自分自身も貧しい生活を送られました。なぜ神はイエスを、富や権力に囲まれた王としてではなく、貧しい大工としてこの世に遣わしたのでしょうか。マザーの次の言葉は、その答えをわたしたちに教えてくれます。
「貧しい人々を理解するためには、わたしたち自身が貧しさとは何であるかを知らなければなりません。でなければ、わたしたちは違った言葉を話すようになるのではありませんか。子どもの心配をする母親のそばに、いることができなくなるかもしれません。」
 言葉は、その人が置かれている生活環境によって意味が変わります。たとえば、「洗濯」という言葉は豊かな人々にとって洗濯機に洗濯物を入れてボタンを押すという意味ですが、貧しい人々にとっては水場まで洗濯物を運び、汚れものを一枚、一枚洗濯板で洗い、最後に水をしっかりと絞るという重労働を意味しています。単語の意味が変わってしまえば、もはや言葉で貧しい人々とコミュニケーションすることは不可能でしょう。
 自分自身も貧しい生活を送っている人たちだけが、本当の意味で貧しい人々に共感し、彼らとコミュニケーションすることができるのです。彼らに神の愛を伝えられるのは、自らも貧しい人たちだけなのです。神がイエスを富と権力に囲まれた王としてではなく、貧しい大工の息子としてこの地上に送ったのは、貧しいイエスを通して神の愛を貧しい人々の心に届けるためだったのです。

3.弟子たちの貧しさ
 イエスは、「神の国」の福音をつたえる使命を帯びた弟子たちにも、自分と同じような貧しさを生きるよう求めました。
(1)マタイ19:21-22
「『もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。』青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。」
 たくさんの財産を持っていれば、人間の心にはどうしても財産への執着が生まれます。そして、神の御旨よりも自分の財産を守ることを先に考えるようになるのです。そうなると、もはや誠実に神の愛を人々に伝えることは難しいでしょう。そのような人間の弱さを知っているイエスは、自分自身も財産を持たず、弟子たちにも財産を捨てることを求めました。マタイ10:5-15などからも、イエスのこの思いがはっきりと伝わってきます。
 そんなイエスの思いを深く悟っていたマザーは、自ら貧しい生活を送っただけでなく、修道女たちにも貧しい生活を求めました。マザーは次のように言っています。
「わたしたちの修道会は、物をほとんど持たないがゆえに、物によって縛られることもないのです。持てば持つほどわたしたちは物によって縛られ、わずかなものしか与えることができなくなります。持つ物が少なければ少ないほど、わたしたちは自由になるのです。貧しさはわたしたちにとって自由です。屈辱や償いではありません。喜びにあふれた自由なのです。」
(2)ルカ6:20-26
「貧しい人々は、幸いである。神の国はあなたがたのものである。」
 この言葉に始まるイエスの説教は、貧しさこそ「神の国」に至る道であることをはっきりと教えてくれます。富が生む傲慢や執着は、「神の国」に至る道をふさいでしまうのです。そのことは、マルコ12:41-44の「やもめの献金」の物語にはっきはりと現れています。

4.今も貧しい人々の中に
 マザー・テレサが最も頻繁に引用していた聖書の箇所は、間違いなく次の一節です。
「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである。」(マタイ25:40)
 この言葉は、イエスがどこにいるかを教えてくれます。イエスは、わたしたちの身近にいる貧しい人々、苦しんでいる人々の中にいるのです。貧しい人々の1人に暖かい声をかけるとき、わたしたちはイエスに声をかけているのです。彼らの1人を家に迎えるとき、わたしたちはイエスを家に迎えているのです。マザーは、この言葉を引用しながら次のように言っています。
「わたしたちの活動を続けていくためには、すべての人の中にイエスを見なければなりません。イエスは、御自分が貧しい者だ、裸の者だ、渇いている者だ、家のない者だ、苦しんでいる者だとおっしゃいました。そのような人々こそ、わたしたちの宝なのです。」
 トルストイの民話『愛のあるところに神あり』に描かれている通り、わたしたちが道で見かけるお年寄り、赤ん坊を抱いた母親、鼻をたらした子どもなどの一人ひとりが、実はイエス御自身なのです。イエスがわたしたちのもとを訪ねてくださったとき、心の扉を閉ざしてしまうことがないようにしたいものです。

5.お金持ちはどうなるのか?
では、豊かな国に生きていて、物質的に満ち足りた生活をしている人たちはどうなるのでしょう。物質的には満たされているけれども、心が飢えた人たちを神は放っておくのでしょうか。
 イエスは全人類の救いのために遣わされました。ですから、貧しい人たちだけを救うために来たのでないことは明らかです。ただ、全人類の救いの業を始めるに当たって、まず貧しい人々の救いから始めたということでしょう。全人類を救うために、まず貧しい人たちを救ったのではないかとわたしは思います。
 豊かな人々、当時の体制に満足していた人々は、神の愛よってその体制を覆す恐れがあるイエスの言葉を受け入れたがりませんでした。物や地上の権威に依存する豊かな人々に自分の無力さを思い知らせ、謙虚に神だけをより頼む心を思い出させるため、神はあえて貧しい人々から救いの業を始めたのかもしれません。ルカ19章に描かれた金持ちザアカイの物語は、そのことをわたしたちに教えてくれているような気がします。

6.まとめ
 貧しい人々の友であったイエスに倣って、マザーは自らもイエスと同じように貧しくなり、貧しい人々のために働く道を選びました。この道は、すべての人が選べる道ではありませんし、すべての人がマザーのようになることが神の望みではないでしょう。
 ですが、マザーの言葉は、わたしたちがどうしたらよりイエスに近づくことができるか、「神の国」への道を迷わずに進めるかを教えてくれています。日常生活の中で、できるところから貧しさを実践し、イエスやマザーの後について「神の国」に向かっていきたいものです。