カルカッタ報告(47)8月27日インド博物館④


 そんなことを思い出しながら、展示室に並べられた大小の神像を丁寧に見ていった。頭が象の神様ガネーシャ、首に人間の生首を下げたカーリー女神、踊っているシヴァ神、剣を振るうドゥルガー女神など、本当にいろいろな姿の神様がいることに改めて感心する。日本人から見るとぎょっとするような姿の神様ばかりだが、これはもう国民性の違いとしか言いようがない。日本の穏やかな自然に宿る神は穏やかな姿をし、インドの荒々しい自然に宿る神は荒々しい姿をしているのが当然なのだろう。
 それらの荒々しい神々の力に支えられ、他の宗教を飲み込みながら成長し続ける宗教、ヒンドゥー教とマザーは一体どうやって向かい合っていたのだろう。マザーは、次のように言っている。
 「あなたと出会うヒンドゥー教徒がよりよいヒンドゥー教徒になれるように、あなたがまずよいキリスト教徒になりなさい。」
 非常に含蓄の深い言葉だと思う。最近流行りの「諸宗教の神学」で展開されている、キリスト教と他宗教の関係についての複雑な理屈をはるかに越える説得力がある。
 わたしたちが「よいキリスト教徒」として神の御旨に応え、貧しい人々への奉仕などを通して自分を神に差し出す姿は、必ず他の宗教の人々にとっても自己放棄と神への帰依の模範になる。ヒンドゥー教徒にとっても、自己放棄と神への帰依こそが救いへの道であるはずだ。マザーは、そう確信していたに違いない。
 しかし、だからと言っていきなりキリスト教の神もヒンドゥー教の神も究極的には同じだということはできないだろう。なぜなら、わたしたちに与えられている道はイエス・キリスト以外にないからだ。イエス・キリストを越えた神のもとにすべての宗教は平等だ、すべての道は同じ頂上に至るというような主張は、頂上である神の視点に立たない限り言うことができないはずだが、頂上に至る道はわたしたちにはイエス・キリスト以外にないのだ。
 だから、わたしたちはただひたすら「よいキリスト教徒」として生きる以外にない。そうやってイエス・キリストにすべてを差し出して生きるわたしたちの姿が、「ヒンドゥー教徒をよりよいヒンドゥー教徒」にし、すべての宗教の人々に救いをもたらすのだ。
 「あなたと出会うヒンドゥー教徒がよりよいヒンドゥー教徒になれるように、あなたがまずよいキリスト教徒になりなさい。」
 この簡潔な言葉の中に、マザーのそのような確信が表れている。この確信が、ヒンドゥー教の圧倒的な力の前でマザーを支え続けたのではないだろうか。
※写真の解説…マンモスの骨格。