マザー・テレサに学ぶキリスト教(15)秘跡とは何か

第15回秘跡とは何か
 教会とは何かという話に入る前に、秘跡とは何かについてお話ししようと思います。なぜなら、教会は洗礼、堅信、結婚などの諸秘跡を成り立たせる基盤であり、根本的な意味で秘跡だと考えられるからです。
 マザー・テレサ秘跡の本質について次のように語っています。この言葉を手がかりにしながら、話しを進めていきましょう。
「神は御自分の息子を与えるほど世を愛してくださいました。イエスは、罪がないことを除けばあなたやわたしと同じような人間になられたのです。イエスは、わたしたちのために全存在と生命を捧げることで、わたしたちに愛を示してくださいました。」秘跡としてのイエス
「さらにイエスは、十字架上で死ぬ前に御自分を小さな『生命のパン』になさいました。わたしたちの愛への飢えを満たすためです。」7つの秘跡
「これが、キリストの贈り物です。今も神は世界を愛し続けています。そのことを示すために、神はあなたやわたしを派遣されました。神は、今も世を慈しみ続けているのです。今、神の愛と慈しみを世界に示すのはわたしたちなのです。」根本秘跡としての教会

1.定義
 秘跡という言葉を簡潔に定義すれば、「①見えない恩恵の賜物が、②経験可能なしるしを通して、③確実に与えられること」と言えます。
(1)「見えない恩恵の賜物が」
 与えられるのは神の恩恵すなわち、愛、希望、勇気、生きる力などで、それは本来、見ることも触ることもできません。
(2)「経験可能なしるしを通して」
ダビデの家よ聞け。あなたたちは人間にもどかしい思いをさせるだけでは足りず、わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。それゆえ、わたしの主が御自らあなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産みその名をインマヌエルと呼ぶ。」(イザヤ7:13-14)
 神は、人間に御自身の愛を確信させ、恩恵を余すところなく与えるために、まずイエス・キリストという目に見え、耳で聞こえ、手で触ることができる完全な「しるし」をこの世界にお送りになりました。
 さらに神は、人間がしるしを求めるものであり、またしるしによって強められるものであることを知っておられるので、イエス・キリストにおいて人間のためにいくつかの目に見えるしるしを制定されました。それが、教会であり、洗礼、堅信、結婚などの諸秘跡です。仏教に「心は形を求め、形は心を進める」という言葉があるそうですが、神様はそのような人間の心理をよく御存じなのです。
(3)「確実に与えられること」
 秘跡を正しく受けるならば、恩恵は確実に与えられます。犠牲祭儀などの「旧約の秘跡」では恩恵の授与は確実なものではありませんでしたが、イエス・キリストによって制定された秘跡からはいつでも確実に恩恵を受けることができるのです。
(4)象徴やシンボルではない
 これらの秘跡を、単なる象徴やシンボルと勘違いしてはいけません。秘跡が、単に神の愛の象徴ないしシンボルならば、神の愛と意味的、感情的に強い結びつきを持っているために、神の愛を思い出させるにすぎないものになってしまいます。ちょうど、「日の丸」が日本のシンボルではあっても、日本それ自体ではないのと同じです。
 秘跡は、そのようなものではありません。なぜなら、秘跡には神の恵みが充満しているからです。秘跡は単に神の愛を思い出させるものではなく、神の愛そのものなのです。秘跡に与るとき、わたしたちは単に象徴的な儀式に与るのではなく、神の愛それ自体に包まれるのです。

2.原秘跡としてのイエス
 このような秘跡の定義に最もよく当てはまるのは、言うまでもなくイエス・キリスト御自身です。イエスにおいてのみ、一度だけ神の恩恵が人類に余すところなく完全に示されたからです。
 神の「しるし」である人間イエスは、同時に神御自身でもありますから、非常に特別なしるしだと言えます。このような特別な「しるし」のことを、カール・ラーナーは「実在的シンボル」と呼んでいます。神を思い出させるだけの単なるシンボルではなく、神御自身を実在させるシンボルだということです。
 イエスこそが秘跡中の秘跡であることを示すために、イエス秘跡と呼ぶ場合には「原秘跡」という特別な言葉で呼びます。「原」という言葉には、他のすべての秘跡がイエスにおいて示された神の恩恵に由来しているという意味が込められています。イエスが制定したすべての秘跡は、イエスにおいて完全に示された神の恩恵を人間に与えるものなのです。
 ですから、イエスの制定による教会の諸秘跡は、イエス・キリストにおいて示された恩恵の賜物が、現在でも経験可能なしるしを通して、確実に与えられること」だと言えるでしょう。

3.根本秘跡としての教会
 イエスが人間にとって目に見え、手で触れられるしるしだったのは、御昇天までのことだと言えるでしょう。人間の肉体をもったイエスは、御昇天によってこの世から天へと挙げられたからです。もちろん、復活したイエスはいつでもわたしたちと共にいてくださいますが、残念ながら御昇天以降、人間の肉体をもってわたしたちの前に現れてくださることはありません。
 そこで御昇天以後、イエスの肉体に代わって神の恩恵の賜物の目に見えるしるしとなったのが、イエス・キリストによって設立された教会です。マザーが言うとおり、イエスの目に見える姿となるために、今度はわたしたちが世界に派遣されたのです。
 その意味で、教会は「キリストの体」だと呼ばれます(エフェソ1:23、コロサイ1:24等)。教会はこの世界にあって、イエス・キリストが愛、共感、友情、優しさなどを人間に示すための顔、仕草、声、手足などになっていかなければならないのです。このように特別な使命を与えられたしるしである教会のことを、他の諸秘跡と区別して「根本秘跡」と呼ぶことがあります。

4.7つの秘跡
(1)秘跡の数
 カトリック教会では、イエス・キリストが制定した秘跡は、教会自体を別格として7つあると考えています。洗礼、堅信、聖体、ゆるし、病者の塗油、結婚、叙階の7つです。16世紀に行われたトリエント公会議でそのことが確認されました。
(2)秘跡の種類
 教会の中で大切に守られている秘跡には次の3つの種類があります。
 まず、「入信の秘跡」と呼ばれる、洗礼、堅信、聖体です。これらの秘跡は、3つが1つとなってキリスト教入信プロセスの核となります。次に、「いやしの秘跡」と呼ばれる、ゆるしの秘跡、病者の塗油があります。これらは人間の心身の傷をいやす秘跡です。最後に、「交わりの秘跡」と呼ばれる結婚、叙階があります。結婚は夫婦の交わりを、叙階は教会と受階者の交わりを確実なものにするからです。
(3)準秘跡
 教会には、これら7つの秘跡の他に準秘跡とよばれるしるしがいくつかあります。準秘跡は、秘跡と違って神の恩恵を与えるものではありませんが、神の恩恵を受けるのにふさわしいようにわたしたちの心を準備してくれます。
具体的には、さまざまな場面で行われる祝福、自分の生涯や物などを神に捧げることを約束する奉献(修道誓願や教会の献堂式など)、誰かにとりついた悪魔を追い払う悪魔払いなどが準秘跡に当たります。
(4)秘跡
 ある意味で、この世界に存在するすべてのものは「神の恩恵の経験可能なしるし」になりえます。わたしたちは、誰かと出会ったとき、あるいは美しい景色を見たとき、音楽を聴いたり絵を見たりしたときなどに、それらを通して神の恩恵を感じることがあるからです。その意味で、神様が創造されたこの世界のすべてのものは、秘跡とは呼べないまでも「秘跡性」を持ちうると言えます。わたしたちに見る目さえあれば、この世界に存在するすべてのものは神様の愛をわたしたちに示しているのです。
5.秘跡の効力
 「わたしは○○神父の洗礼を受けた」というような言葉を聞くことがあります。気持ちとしてはわかりますが、これは正しい表現とは言えません。なぜなら、洗礼の効果は儀式を執行した○○神父の人徳や人柄によるものではなく、儀式自体によって発生するからです。洗礼の儀式が正しい手順で正しい言葉を使って行われていれば、誰が洗礼を授けたとしても同じ洗礼ですから、「○○神父の洗礼」という言い方はおかしいのです。
 秘跡の効果が、儀式を執り行った人の人徳や人柄によって発生するという考え方を人効論と呼び、正しい儀式自体によって発生するという考え方を事効論と呼びます。カトリック教会は、伝統的に事効論の立場をとっています。
 もし人効論に立つと、洗礼を授けてくれた神父さんがあとから大悪人であることがわかった場合、その洗礼は無効ということになって困ったことになります。ミサに出るにしても、ミサを立てている神父さんが善人か悪人かは外見から判断できません。ですから、もし人効論に立つと、安心して洗礼を受けたりミサに出たりできなくなります。事効論で本当によかったと思います。