バイブル・エッセイ(106)王として生きる


  ピラトはもう一度官邸に入り、イエスを呼び出して、「お前がユダヤ人の王なのか」と言った。イエスはお答えになった。「あなたは自分の考えで、そう言うのですか。それとも、ほかの者がわたしについて、あなたにそう言ったのですか。」ピラトは言い返した。「わたしはユダヤ人なのか。お前の同胞や祭司長たちが、お前をわたしに引き渡したのだ。いったい何をしたのか。」イエスはお答えになった。「わたしの国は、この世には属していない。もし、わたしの国がこの世に属していれば、わたしがユダヤ人に引き渡されないように、部下が戦ったことだろう。しかし、実際、わたしの国はこの世には属していない。」
  そこでピラトが、「それでは、やはり王なのか」と言うと、イエスはお答えになった。「わたしが王だとは、あなたが言っていることです。わたしは真理について証しをするために生まれ、そのためにこの世に来た。真理に属する人は皆、わたしの声を聞く。」ピラトは言った。「真理とは何か。」(ヨハネ18:33-38)

 復活したキリストは、天に挙げられて御自分の国の王となりました。これは、ある意味で当然のことだと思います。なぜならば、イエスはこの地上にいる間も王としての生き方を貫いたからです。
 十字架につけられたイエスのみすぼらしい姿を見るとき、この人の一体どこに王らしさがあるのかと思う人もいるかもしれません。確かにイエスの姿は、大きな城に住み、きれいな服を着てたくさんの人々を従わせているこの世の王とはかけ離れています。しかし、イエスは王でした。王とは自分の民のことを何よりも大切にする人だとすれば、自分の民のために命さえも捧げられたイエスはまぎれもなく王だったのです。
 キリスト教入門講座などで習われたと思いますが、実はわたしたちにも洗礼のときにイエスと同じ使命が与えられました。わたしたちにもキリストの王職、すなわち王として生きる使命が与えられているのです。キリストの王職が着飾ったり、威張ったりすることを意味していないのは明らかです。わたしたちは、キリストと同じように、何をするにしてもまず全ての人の幸せを最優先に考えて生きることにおいて王となるよう求められているのです。
 自分さえよければ、自分の家族、あるいは自分が通っている教会さえよければいいというようなさもしい考え方では、決して王になることができません。そのような狭い考えを捨て、ただ全ての人の幸せを思い、毅然とした態度で王らしく生きてゆきたいものです。
※写真の解説…満開の山茶花。六甲山にて。